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2009年09月05日(土)

窓を開けると、夜空にまんまるい月がぽっかり浮かんでいる。雲に交わるわけでもなく、空に交わるわけでもなく、まさにそこにぽっかりと。あまりのその煌々とした姿に、しばし私はうっとりする。それにしても、この時間はこんなにも肌寒くなっていたのか。寝姿のまま窓際に立った私の腕に、淡く鳥肌が立つ。

昨日、娘が帰宅する前に家に戻った私は、草木に手を入れた。すっかり咲き誇ったパスカリ二輪を枝深くから切り落とし、鉢からだらり垂れ下がったアメリカン・ブルーの枝を詰めた。さて、この枝をどうしよう、このまま捨ててしまうのはもったいない。気づいたら、それぞれ挿し木を始めていた。狭い鉢の端っこに、アメリカン・ブルー6本、パスカリ3本。これでよし、と思い立ち上がってはっと気付いた。あぁ、この週末私は留守にするんだった。私は改めて挿し木したそれらを見下ろす。水を足してあげられない。そのことにいまさら気づいた。挿し木は無駄かもしれない。早々に私はがっかりする。しかし、せっかく挿してしまったものを抜いてしまうのもどうなのか。さんざん迷った挙句、そのままにしておくことにした。この二日、生き延びてくれることを祈るばかり。ダメだったらまた、そのとき考えよう。うん。

ばたばたと足音がして娘が帰ってくる。真っ黒に日焼けした顔に、薄く汗をにじませながら。ミルクとココアをいじくりつつ、学校のことをあれこれ話してくれる。放送委員はね、五年生、六年生がほとんど全部やっちゃうんだって、でもね、悔しいから、二つは私がやれるようにしたんだ。来週サングラスが必要なんだって。理科の実験で使うって。ママ、買っておいてね。でね、友達がね…。
せわしなく続く彼女の言葉。でもそれもひとときで終わり、私たちはそれぞれ出かける準備を始める。
一枚の紙を彼女に渡し、ママは土日はこういうところに出かけてるからね、何かあったらいつでも携帯に連絡してね、とメモしたものだ。今迄口伝だけだったのを紙に書いてみた。しかし。彼女には全く興味がないらしい。ふぅーんと一言言ったきり、その紙を下手すれば丸めてぽいするところだった。危うくそれを止めて、一応持っておいてね、と頼んでみる。ここでもまた、ふぅーんという返事。おい娘、大丈夫か、心の中でそう声をかけつつも苦笑してしまう。

昨日のことを今思いだそうとして、思い出せることはそれだけ。あまりにも少なくて、私は頼りなくなる。不安になる。なぜつい昨日のことなのに、十数時間前のことなのに、思い出せないんだろう。自分の脳みそに向かって声をかけてみる。かんかんと頭を叩いてみる。もちろん叩いたからといって何も出てこないのはわかっているのだが。
それでも不安なのだ。記憶が途切れている何年もの時間を持っていたりすると、手元の記憶が曖昧であることにひどく不安になる。一体私はどうやって生きていたのか、そのことが、とてつもなく不安になる。

そうしている間にも月は西に堕ちゆき。徐々に地平線に近くなってゆく。それに合わせるように、雲が流れ流れ、月を隠してゆく。まるで黒猫の足跡のようだ。この空はまだ当分、明けそうに、ない。

途切れている記憶を辿ろうとするのを諦めて、私は荷物を確認する。もうそろそろ出かける時刻が迫ってきている。始発で出かける今日、時間を緩めるわけにはいかない。でも何だろう、落ち着かない。
仕方なく私は、お茶を入れてみることにする。何にしよう、一瞬迷って、えいやっとハーブティを入れる。レモン&ジンジャー。私の気付け薬だ。パニックになりかけの時、不安が嵩じている時に飲むと、これが不思議と頓服薬代わりになってくれる。
熱い熱いハーブティに、ふぅふぅ息をふきかけながら飲んでいる。やっぱりおいしいんだな。ほっとする。
週末の仕事の前にはそう、こんなふうに私は緊張してしまうのだ。失敗したら次はもうないから。その時ラフマニノフのピアノ曲がPCから流れ始めた。ちょうど、今の私に合うかもしれないなぁなどと耳を傾ける。

気持を切り換えて。そろそろ出かけなければ。バスがないこの時間、駅までの道は遠い。
ミルクとココアに挨拶をし、私は玄関を出よう。お守りのネックレスは今日も変わらず私の首に架かっている。忘れ物は、多分、ない。
飲みきったハーブティのカップを流し台に置く。ことっ。一人の部屋はやはり音が響く。一瞬、実家で眠っているのだろう娘やじじばばのことに思いを馳せる。
さぁ、もう時間だ。いってきます。私はしんとした部屋にそっと声をかけ、家を出る。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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