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2005年03月10日(木)

 込み合う電車、扉に体をぴったりくっつけて電車が自分の降りる駅に着くのをひたすら待つ。扉のガラス部分がうっすらと曇っている。列車内の暖房は容赦なく私の上から降り注ぐ。体を小さく丸めながら、私は上着を脱ぎ、胸に抱きしめる。窓の外、見慣れた風景が通り過ぎてゆく。私の目は何処に焦点を合わせるわけでもなく、身動きひとつせずにじっとしている。苦しい。息がしたい。そう思いながら、私はじっと息を潜めている。ようやく窓の外に野っ原が現れる。見事に何もない、ひたすら雑草の生い茂る野っ原。この野っ原が現れると、束の間だけれども私はほっとする。何もない、ただの野っ原。でもその何もないというそのことが、私をほっとさせる。あともう少し我慢すれば駅に着く。自分にそう言い聞かせ、私は扉に体をさらにぴったりくっつけて、時間が過ぎるのを待つ。
 考えてみればもう何年、この街に通っているだろう。初めて就職したその頃から、いや、大学時代、いや、高校時代から、何だかんだとこの街のあちこちを歩いてきた。でも、何故だろう、いまだ慣れることがない。東京という街は、どうしても私の肩を背中を強張らせる。一時期東京に住んだことがあった。その街は下町風情がまだ残っていて、地元住民がわんさか集まる祭りもあった。そういうものはとても好きだったけれど、私はどうしても、余所者の意識が抜けなかった。好きなのと慣れるのとは違うのだなと、その時知った。好きだったけれど、どうしても馴染めなかった街。東京はいまだに、私にとってそういう場所だ。
 早々に用事を済ませ、受け取った荷物をぎゅっと握り締めながら私は帰り道を急ぐ。電車が横浜に着くまでじっと、ただじっと空席の目立つ座席に座って過ごす。横浜に着くと、私はようやくほっとする。あぁ帰って来た、そんな気持ちがする。自然、肩の力が抜けて、呼吸も楽になる。東京と横浜。何が違うと明確に言うことができないのだけれども、私の体は明らかに異なる反応を示す。ただそれだけのことといえばそれだけのことなのだけれども。
 坂道だらけの街をうねうねと自転車で走る。歩くことは嫌いではないが、自転車が好きだ。自転車で走りながらあれやこれや思い巡らす。いいこともいやなこともいっしょくたに。海からの風が私の髪の毛をぐしゃぐしゃにして通り過ぎる。雀の親子が突然茂みから飛び出して来る。あっちもこっちもマンション建設の最中で、工事の車両が車道にはみ出している。それらをくいっくいっと避けながら、私は自転車を走らせる。
 「あら、いらっしゃい」。そう言って迎えてくれるのは、前に住んでいた家の近くにある駄菓子屋さん。体を横にしないと通れない、つまりは子供の体サイズしか開いていない通路の片側に、品物があれこれ並んでいる。みんな百円以内で買える品物。私はシャボン玉を二袋、おばあちゃんに渡す。「今日はお嬢ちゃんは?」「保育園です」「あ、そうだったわね。じゃ、これお土産ね」「いつもありがとうございますぅ」「また来てね」「はぁい」。それだけのやりとりだけれども、私の心はぽっと明るくなる。奥ではおじいさんが新聞を広げながらテレビを眺めている。おばあちゃんに手を振って、軽く会釈して店を出る。何をお土産にくれたのだろう、袋の中を覗いてみる。すると、チョークが一本入っていた。前回娘と来た折に、娘が欲しそうに眺めていたピンクのチョーク。一本二十円なのだから買ってもよかったのだが、これを使って遊べる場所がないなと思って私は買わなかった。おばあちゃん、それを覚えていてくれたのだ。自転車に乗りながら、おばあちゃんありがとねぇと呟いて、私は坂を上る。
 マンションの入り口に自転車を停めていると、入り口脇にある美容院からいつものお姉さんが出てきた。あらこんにちは。いい天気ですねぇ。ほんとほんと、こんな天気に仕事してるなんてもったいないわねぇ。ははは、じきにお花見の季節ですよね。もちろんお花見するわよ、今から楽しみにしてるんだから、私。気が早いなぁ、と言う私も同じですけど。何処にでもあるような会話、何処にでもあるような会釈、でも、そんな何処にでもあるものが当たり前に在る、それが、強張る私の背中を柔らかくしてくれる。
 それまで当たり前であったことが、常識であったことが、根こそぎ覆される、そういう体験を経てしまうと、それまで当たり前であったことはもう二度と当たり前には戻らない。ひとつひとつが、すべて、特別なものになってしまう。たとえば誰かが手を差し伸べてくれる、誰かが声をかけてくれる、誰かが笑んでくれる、私もそれに笑みを返す、そんな、今まで当たり前にあった仕草、やりとり、営み、すべて、実はいつ崩れてもおかしくない代物だったんだと、思い知らされるのだ。そして、今の今まで私のすぐ隣にいてくれたはずの人が、掌を返してくるりと背を向けて立ち去ってゆく、そのことの方が、当たり前になってしまう。色のあった世界が、あらゆる色を失って崩壊してゆく。地面も地平線も空も何もかもが、ついさっきまで当たり前にあった世界が、くるりと反転して、誰とも共有できない世界へと変貌する。そして私は、もう、そこの住人になるしか、術はない。
 でも、望むなら、きっと、再び世界を建て直せるはずなんだ、と、そう思い至るまで、どれほど長い時間を要しただろう。今だってまだ途中だ。ちょっと油断すれば、私は足を踏み外し、階段を幾つも転げ落ちるだろう。のぼりかけた坂道を、あっけなく転がり落ちるだろう。だからどうしても、恐がりになってしまう。目を伏せてしまう。
 そんな自分をいやというほど感じているから、私は多分、敢えて空を見上げようと、意識するのだ。そうしないと何処までも私は下を向いて歩いていってしまうかもしれないから。そんな姿を見ていたら、娘はきっと、上を向くことが悪いことか何かのように思ってしまうかもしれない。前を向くこと、上を向くこと、世界を眺めること、世界を呼吸すること、世界に手を伸ばすこと、そういったことすべては、本当は決して恐いものでも何でもなく、当たり前に為して不思議ではないことなのだから。
 娘を寝かしつけながら、私はいつも彼女に囁く。みう大好きだよぉ、と。それは、ずっとずっと、私が母に言ってほしかった言葉だ。母に、好きだよ、愛しているよ、と、私はずっと言ってほしかった。別にあんたが何もできなくても、何もしなくても、私はあなたを愛してるんだよ、と、そんなたった一言を、私はずっとずっと欲していた。今もまだ、もしかしたら、私は心の何処かで、それを求めているのかもしれない。もうそんなことを、表に出すほど子供ではなくなってしまったけれども。だから私は娘に言う。大好きだよぉ、と。そして抱きしめる。好きだよぉ、と言いながら。娘に、ママ痛いよぉ、と体をくねくねされながらも、笑い合いながら好きよと言う。ただ思ってるだけでも伝わるものでしょ、と、親子の間でよく言うけれど、思ってるだけじゃぁ伝わらないことだってある、当たり前のことだからこそ、声に出してちゃんと伝えたいことが、ある。
 静かな寝息を立て始めた娘の横から這い出して、私はいつもの椅子に座る。開けた窓から流れ込む風は、今日はなんだか生暖かい。まだもう少し、冬のままでいてもいいのにな、なんて思う自分に苦笑する。過ぎてしまってから恋しがる、人はそんなわがままな生き物。
 さぁ残りの仕事を仕上げてしまおう。椅子の向きを変えて、私は背筋を伸ばす。首筋をすっと、夜風が通り過ぎてゆく。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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