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「猫ほどに脆い私たち」村上春樹『猫を棄てる』感想文

#猫を棄てる感想文

あ、とうとう読めるんだ、と、村上春樹さんが自身の父親について書くと聞いて思った。
ギャツビーの翻訳が思ったより早く出された時もそう感じたけど、父親について書く、ということは、彼の中でずっと根を張って時を待っていたことなのだろう。
村上春樹さんって、真摯に向きあうようで、というか真摯に向き合うからこそ、対象を色んなフィルターや反射板を通してしか描けないひとのような気がする。
なかなか言いたいことが言えなくて、そばをウロウロしている気の弱い男友達のように、とても真面目で丁寧に言葉を選ぶのだけれど、気持ちを正確に伝えるのに時間がかかってしまう。私は彼の言葉を推し量りながら、注意深く彼が伝えたいことに耳を傾けるしかない。文学ってそういうものかもしれないけれど、なにごとにも遠回りが必要な人っている。

村上春樹さんはそもそもから、家族とか、特に親についてはほとんど書かない。書いてあると、え、珍しいなと思ってしばらく印象に残るくらい。
短編の「ファミリーアフェア」に母親と電話で会話するシーンがでてきたことに、すごく驚いた覚えがある。
デビュー作の「風の歌を聴け」には、主人公の父親がデート中の会話の中には登場していて、たしか女の子に、弟と交代で父の靴を磨くのが家訓なんだと話すシーンがあった。村上朝日堂だかのエッセイにも、もののついでのように、父は坊主の息子で、よく京都に行ってはちょっととりあえずな感じで湯豆腐を食べていた、ということ、子どもの頃から書店でツケがきいたので、父親のおかげで好きなだけ本が買えて読むことができた、というのもあった。
それでもやはり、基本、直接父親が登場することなく、間接的に軽く触れられる程度に留められてる。

村上春樹さんが直接的に父親を小説のなかで描写したことで強烈なのは、「海辺のカフカ」の、主人公カフカくんの父親だ。
ジョニーウォーカーさんのコスプレをして猫を殺していく。その怪物ぶり、そのラスボスっぷりがスゴい。
「1Q84」に出てきた父親は、さすがに猫殺しはしない普通の人間ではあったのだけど、NHKの集金人として亡霊のように青豆の部屋のドアを叩く。
この時期に何かで読んだインタビューで、村上春樹さんはその頃リアでも彼のお父様を亡くされたことに言及していた。
ああ、だから書き始めることができたのかもしれない、と思ったのだけれど、それにしても本当、いったいどんなお父様なのかなと私なりにイメージを巡らせていた。まさか猫殺しや国営放送の集金の亡霊とかじゃないんだろうけど。耐え難い、重たいもの、なかなか触れられない何かを抱えさせる強烈なお父さまなのだろうなとぼんやり思っていた。

ある日の日本経済新聞のコラムに、夕刊か朝刊か忘れたんだけど朝日新聞でいえば天声人語にあたる部分に、村上春樹さんのお父様の教え子というかたの文章が載っていた。それによると村上春樹さんの父親、村上千秋氏は、コラムの筆者の方の通う名門の中高一貫校の国語教師しておられて、その全校集会だかで、この中学にコネ入学はありません、なにしろ私の息子は落ちてますから、とおっしゃってあったそうだ。コラムを読む限りは学生たちに慕われる温厚な先生のようで、怖いどころかその穏やかなそうな姿にジョニーウォーカーの亡霊が頭にあった私は唖然としてしまった。
教え子という遠めから見た姿でしかないとはいえ、上品な名門校に勤める国語教師で、ユーモアさえ感じさせる紳士だ。

きっと、村上春樹さんが感じてきた重たい何かというのは、お父さま本人の人格や、息子である彼に対してなされた行いがどうの、という問題の話ではないのだろう。
反抗期云々、父親との性格的に合う合わない、などの関係性のこじれでもない。
父親が、お父さまが、息子である彼に背負ってほしいと願っていた諸々のもの、があまりにも重苦しい何かだったのだろう。
お父さまがご実家の跡を継ぎ、僧侶になられていたら、もしかしたら、それは村上春樹氏に背負わされずに済んだものなのかもしれない。
教師として教え、家族を守る父親として平和な日々を送るのではなく、親族に期待されたように京都の大きなお寺の跡取りとして祈りをささげる日々を送っていたら、その重くて大きなものは息子に背負わせることなく、彼の中で昇華されていっていたのかもしれない。
毎日朝ごはん前に小さなガラスケースの菩薩様にお経をあげることではとても、追いつかないなにかが、、こぼれ落ちるなにかが沢山あったのだろう。
そうやってこぼれ落ちるもろもろのも「なにか」たちが、村上春樹さんの少年の頃からずっと重いプレッシャーを与え続けていたのかもしれない。

村上春樹さんが家族、父親について語り始めるのと同時に、彼から語られ始めたことが、戦争について、だった。
村上春樹さんが従来のスタイルから変わろう変わろうとしていたのがファンの間でも感じられた時期がある。
「ねじまき鳥クロニクル」で、驚くほどの尺をとってノモンハンとその周辺のことが語られた。トラウマになるレベルで生々しく描写されたそれらのことは、不思議に絡み合う物語たちと合わせて私たちをものすごい勢いで物語に引き込んだ。

今回「猫を棄てる」で多くのページを割かれたのがお父様の従軍体験だ。
それがもし、お父さまの口から直接、息子に語られたことであれば、おそらくそれほど重たく大きなことにはならなかったのだろうと思う。
お父さま自身、しっかり語ることのできないまま、大きな時間軸の中でいつかは語れるかもしれないという可能性を残し、そしてそれが宙に浮いたまま、断たれたままだったからこそ、目を背けられたものとして得体のしれない怪物に膨らんでいってしまったのかもしれない。
実際、彼の短編には向き合うべきものから目をそらし続けた結果、いろいろとほどけてしまっていく人々を描いたものも多い。
お父さま自身、国語の教師で、若い頃から俳句という表現方法で巧みに言葉を紡ぐことをしながら、多くの学生を指導してさえいらしたけれど、
息子には、自分の背負うものをまっすぐ語ることができなかったようだ。それは単にタイミングという問題でもなかったのかもしれない。
村上春樹さんが、はい、お父さん、あなたのお話を聞きますよ、という態度に出たとしても、背負ったものを全て語ることはお父さまにはできなかった気がする。
結果として彼は父親の死後に、多くの時間を割いて父親の辿った軌跡を調べることになる。お父さまが生きてるうちに直接聞いていればなんなくわかったようなことなのに。たぶん、その作業も、遠回りに見えて必要なことだったのだろう。きっとそれが彼なりの村上春樹さんなりに向き合ったの継承のしかたなのだ。

私たちは継承に慣れていない。特に戦争体験において、それは著しい気がする。
団塊の世代と言われる、私の両親の世代を見ても、多くをさらにその親である、私たちの祖父母世代から受け継いでるとは思えない。そもそも、その継承というものは全てのひとに絶対的に必要なのだろうか。何かを背負って生きて行くのも一部の人だけで充分かもしれないし、むしろ多くの人は背負おうと思っても正しく?背負えず、迷走を続けることも多く見られる気もする。

私の祖母と伯父は長崎で被爆した。
祖母は結婚前の娘時代に修道女としてマキシミリアノ・コルベ神父に教えを受け、その数年後に帰国したポーランドにてコルぺ神父は、ナチスからアウシュビッツに送られ脱走兵の身代わりとなり餓死室に入り、殉教をとげた。その戦争は、修道院を出て結婚した祖母にも、息子である伯父と共に原爆の光を浴びせた。
伯父は私が生まれる前に原爆症で亡くなっている。私は小学2年生の夏までそのことを知らなかった。
原子爆弾というものの存在を知ったことと、どういういきさつか忘れたけれど祖母や亡き伯父も被爆者であることを知ったのは同時だった。
ちょうどその頃、世界は冷戦まっただ中で、核ミサイルがどんどん作られ、あちこちで核実験が行われていることも知った。

8歳の女の子が受け止めるにはあまりに恐ろしいことだらけだったと思う。私は夏が来くるたびに、原因不明の熱にうなされるようになった。
滑稽だけれども、飛行機やヘリコプターが頭上を飛ぶたびに青ざめた。平和授業などあると、気を失うことも多かった。修学旅行の原爆資料館は入る前から嘔吐して入り口に近づくこともできなかった。父も他の叔父叔母たちも従弟たちも、私のように祖母の体験が遺伝子レベルでトラウマになってる様子はないのに。

私が諸々のことと向き合えたのは、大人になってからだ。子どもを2人産み、子どもたちで合唱団を作り、2015年に戦後70年を迎えたときだ。
父親はいわゆる団塊の世代で、戦争を知らない子供たち。自分の親世代ですら知らない戦争を、どう子供たちに伝えるのか?
私は我が子を含む子どもたちを連れ、長崎の原爆ホームに向かった。そこで、子どもたちと歌い、被爆者の方々の手を握った。
私からは子どもたちに何も語らなかった。子供たちが知りたいことがあれば子供たちが自ら勝手に調べればいい。
ただ、被爆者の方が生きているうちに、何度も子供たちをここに連れていきたい。それは私の仕事だと思っている。
私は祖母からも父からも、原爆の話はほとんど聞いていない。
祖母からは字が読めるようになった幼稚園の頃から、コルベ神父の本や絵本の聖書や、聖句のカードやメダイが定期的に大量に送られてきたけれど。
それは私に戦争というより、絵本の絵の美しさ、聖書や聖人たちのエピソードの面白さ、読むこととの楽しさを教えてくれたに留まった。
高校生なる私の娘は何故かナチスやアウシュビッツついての本を読むことが多い。「戦争は女の顔をしていない」も読んでいて、私が手に取ろうとすると、
お母さんは気を失うからだめ!と取り上げられてしまう。
私の祖母が被爆したこと、祖母が師と仰いだコルベ神父がアウシュビッツで亡くなったことは娘には一切話していない。

「猫を棄てる」に話を戻そう。
この本には二匹の猫が出てくる。一匹はタイトルになった、捨てられたはずが、なぜか命拾いをしてしまった大人の猫。
そして、もう一匹は、木登りの能力をスルスルと見せつけるようで、そのまま戻ってくることができず、命を落としてしまったであろう子猫。
なんとなく、お父さまは捨てられる予定が、ひょんと命拾いをした猫に、自分自身を見ていた様子がある。
そして、息子である村上春樹さんは、高い松の木の上で、戻るタイミングを失ってしまい、干からびてゆっくり死んでいく子猫について思いを馳せる。
そこには語られることのなかった何か大きなものたち、ちっぽけだったゆえに、失われ、やがて膨らんでいったものたちの何かがうごめいて潜んでいるのだろう。

私たちは人種や国や性別や時代に関わらず、等しくちっぽけでもろく、弱く、才能も力も美醜も年齢も関係なく、ただただ大きな壁の前では同じような小さな卵であり、猫たちににすぎないのだ。
いま現在も、昔も、そしてこれからも。そして各々の借りものの時間の中で、できることをしていくしかないのだ。

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