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誤解のハイジ~汚れた黒い女性・浄化される子どもたち①〜

ハイジについて多くの方が誤解をしていて、この原作はそもそもガッチガチの宗教物語です。彼女は隙あらば神さまに感謝して大人たちに福音を伝えまくってます。
放蕩の末に教会を棄てたおじいさんを改心させて教会に行かせたり、妻と娘を亡くして神さまが信じられなくなったお医者さんを讃美歌で泣かせたり。ペーターのおばあさんに読み聞かせるのも全て聖書や宗教の詩です。福音無双!
それもそのはず原作者のシュピリは父親が牧師、母親が宗教詩人のガッチガチのプロテスタント一家で、シュピリ自身も宗教ものの小品をいくつか書いています。
高畑勲&宮崎駿のコンビはアニメ化において、このクリスチャンハイジからゴッソリと、意図的に宗教を抜き取っています。
ただ、宗教的なテイストはそのまま残していて、たとえばハイジがチーズ作りのミルク鍋を焦がして、それを責めもしないおじいさんにかえって悲しくなって、小屋を飛び出したとき、受け入れてくれるのは、三本のもみの木です。それはどことなく3、という数字から父と子と聖霊の三位一体を思わせる様相で、ハイジに語りかけます。ハイジは自分の失敗を向き合い、これからどうすればよいかを悟ります。これは宗教的な内省に近い。
ペーターのおばあさんに読んで聞かせるのはアニメでは美しい希望の詩ですが、言葉は光、ロゴスであり、そこから目が開けていくのは、神の言葉が世界を照らすことに似ています。言葉の可能性について力強く表現されていることに共感しますし、その役割は確かにある時期までほぼ宗教が独占して果たしていた仕事でした。
西洋キリスト教的な価値観では、自然は神が作らせたもうもので、自然の力は神の栄光の顕れですが、このアニメでは自然ひとつひとつにそれぞれ八百万の神が宿るように、子どもたちや大人たちに力を与えてくれます。それは全能の一神教のキリスト教から多神教の日本的アニミズムに変換されている印象があります。

原作のキリスト教的宗教テイストを抜いても、自然や言葉が人々に力を与えてをくれることは、アニメのなかでしっかり描かれているのです。
これだけ原作を変えといて、原作の素晴らしさを損なっていないってスゴい、、、
その証拠に高畑&宮崎アニメのハイジは世界中に受け入れられていて、海外のある世代はそれが日本アニメと信じないほど、若い世代では高畑&宮崎以外に誰かこんな素晴らしいアニメを作るんだよ!とまでリスペクトされています。

もうひとつ、日本人がなかなか気づかずにいることですが、ハイジはゲーテのパクりです。とまでは言いすぎですが、シュピリはこれもガッチガチなゲーテおたくです。ハイジのドイツ語のタイトルはまんまゲーテで、元は「ハイジの修業時代と遍歴時代・ハイジは学んだことを役立てることができる」ゲーテの「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代と遍歴時代」てか同じw何がすごいて、高畑勲&宮崎駿コンビはシュピリのゲーテ愛をしっかり理解していて、フランクフルトのクララが住むゼーゼマン邸は、まんまゲーテハウスの間取りになってます。
ということは、ハイジはゲーテのヴィルヘルム・マイスター同様、当時よく流行っていた成長物語、ビルディングロマンスであることがわかります。しかし、部屋の間取りにはゲーテ愛を盛り込んだ高畑&宮崎コンビも、宗教テイストと同時に、原作からこのビルディングロマンステイストをゴッソリ抜いているのです。この思い切りはすごいよなー、、、。
たとえばペーターは原作ではハイジに字を読むことを脅されながら特訓されますが、アニメで新しく見せた設定では、ペーターは大工仕事に才能を見つけ、おんじに道具を貸してもらって立派なソリを作り、見事そり滑り大会で優勝するほどになります。あ、字は憶えないまんまですw
おんじは原作では自分の過去の過ちを恥じ、教会に通うようになりますが、アニメでは特に過去を反省もせず、下手するとますます村人とケンカして仲たがいする始末です。あ、そういえばクララにバターを食べさせるために、村人と自分勝手な取引とかはやってますw
2人とも成長、ビルディングしてないww
おそらく特に宮崎駿さんはビルディングロマンス、成長物語が好きではないんだろうなと思います。
たとえば千と千尋では、異世界に入る前、母親にしがみついていた千尋は、あの大冒険をこなしたあとでさえ、帰りも同じように母親にしがみついてウザがれています。あれだけの冒険の前と後に変化がないんですね。これは児童文学ではお約束を無視した形に近いです。それについて、宮崎氏は、成長なんて必要ない、僕らはそんなものなくてもやれる、と語っています。成長などしなくても、力は、僕たちのなかに既にある、と。

私も教育系の専攻で学んではいたものの、大人が正しい道を示して子供がそれに倣い成長するファンタジーはどうも苦手で、だからこそおんじの
「こどもたちだけでやらせてみませんか」と、クララとペーターとハイジで山にやるのはいいなあと思ってます。
おじいさんはクララがリハビリでメンタル的に壊れそうになった時に見守ったり、ヤギに良い乳を出させるための草を探したり、村人と強引な取引をしてバターをゲットしたりとあくまでサポートに勤めます。この辺は、人間だけの思惑で物事をなんとかしようとせず、神様におまかせというか、できることをできるだけやる、という姿勢は、宗教がありにしてもナシにしても素晴らしいと思います。

このアニメが放送されたんは都市と公害が問題視されていたせいか、都市の汚れ、大人の文明の穢れを崇高な自然と子供たちが浄化するという図式を感じます。なんとなく自浄作用がしっかり機能してる感じですね。
神話でも少女が試練を乗り越えて愛をえたり、罪を赦されるのはお約束ですが、ハイジも遍歴と修行によって、多くのものを浄化し、幸せにみちびきます。

そもそもの原作も、おんじの罪が息子や嫁の死に繋がり、ハイジのフランクフルトでの夢遊病は母親アーデルハイトの遺伝のメンヘラの名残が都会の穢れによって誘発された感があります。それが神なる自然により浄化されていく。まずは子どもから、ハイジの本名、「アーデルハイト」、ドイツ語で「崇高なる高みにいる子どもから罪深きおんじへ、病の貧しきおばあさんへ、都会に疲れたお医者さんへ、そして都市に蝕まれて歩けなくなった子どもクララへ奇跡が。

ただ、これは、なんとなく、作者のシュピリ達やハイジたちが、スイス人で、白人の中の白人だからなり立っている図式だと思います。
ここに別の人種が入ると浄化の構造は怪しくなってくる。
私たち日本人は、テキストの中にある人種の地図について、無頓着なところがあります。差別を考える前に、その構造や文学によって無意識に刷り込まれた感覚を洗い出していけたらと思っています。
次回は、生粋の白人でないひとたちが混じってくる、それでもハイジと少し似ていて浄化作用が働き、歩きを取り戻す子どもが登場する、バーネットの「秘密の花園」と、大航海時代の穢れを労働で浄化する「小公女」に、英国と植民地アメリカの幸福な関係「小公子」について書いていきたいと思います。


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