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「誰にも隠されていないが、誰の目にも触れない」語り

断片的なものの社会学』を読んでいる。

今、ある92歳のおばあちゃんに聞き取りをしている。生き様が民藝で、会えば会うほどすきになる、丸い目の優しいおばあちゃん。彼女をどう表現したらいいか行き詰まり、岸政彦さんの活動にヒントがあるような気がして読み進めている。

断片的なもの。それは、切り取った一場面に過ぎない。

ある一場面を普遍的なものだとラベリングしてしまうことに若干の違和感を感じていた。

私自身驚くくらい浮き沈みがあるし、ある日の私の姿を見て「この人はこういう人だ」と思われると、何にも知らないくせにとムッとしてしまう気がする。

だから、そのおばあさんのお宅に通うことにした。お菓子を持って、ふらりとお邪魔する。一応ICレコーダーは回すのだけど、インタビューというよりはおしゃべりに近い。少しずつ、この方はこういうことを大切にしているのだなあということがわかってくる。そうして何気なく、久しぶりに初めてお会いした時の録音した声を聞き直したときに、最初は意味をなさないと思っていた場面…文字起こしでは、省いていた部分に大切なものがあったことに気づく。

お話を伺っている途中に、カラスが飛んできておばあちゃんは「あ、カラス…」と言って、話が中断した。毎日二羽飛んでくるカラス。彼らは賢いから1mよりこちらにはやってこない。毎朝カラスが催促するので、おばあちゃんは彼らにパン屑をやっている。それを見た道行く人に「カラスを飼ってるだがな」と言われ、「二羽飼ってあります」と笑ったというエピソード。

私は、中断していた話の続きが気になってサラッと聞き流していたこの部分にこそ、このおばあちゃんらしさが溢れていたと気づいた。私は、無意識のうちにドラマチックなストーリーを求めていた。この人はこういう人、というラベリングを早くしたくて、本当に大切なもの、その人らしさに目が向いていなかった。

そうして私は、断片的なものを切り取ることの価値を知った。

それをそのまま切り取り、解釈は加えない。

注目さえしなければ見えなかったものが、そこに目を向けることで浮かびあがる。そして、各々が勝手にそこから何かを感じたり感じなかったりすればいい。そういうことか。

そして、それらは私が助産師として出会ってきた女性たちの何気ない話りの中にも存在していた。市場の人々とじっくり話している中で見えてきた私の故郷東京とはまた違う、鳥取という地に今生きている人々の姿。偉業を成し遂げない限り目に触れる機会がなかった、小さな灯火のようなひとりひとりの生き様。そういうものを、私は流さず拾い上げたいと思ったのだった。

少しだけ、見えてきた。

だからこそ、この「誰にも隠されていないが、誰の目にも触れない」語りは、美しいのだと思う。徹底的に世俗的で、徹底的に孤独で、徹底的に厖大なこのすばらしい語りたちの美しさは、一つひとつの語りが無意味であることによって可能になっているのである。
断片的なものの社会学』岸政彦 P.38