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因果応報を考える

あるとき、電車で座っていると、違和感を感じた。

隣の女性が急に不自然にうなだれ、顔をおさえている。

「あ、これは」と思って、私は慌ててバッグのなかを探ってポケットティッシュを捜し出した。小さく「はい」と言って隣の女性に渡すと、彼女は、ほとんど私の手から奪い取るようにしてポケットティッシュを受け取り、真っ赤な血が出てくる自分の鼻をおさえていた。

そのときに私は思い出した。高校生のとき、電車のなかで私が鼻血を出したときに、近くに居合わせた女性がポケットティッシュをくれたことを。私の地元の駅の電車は30分に1本くらいしかこないので、今電車を降りてしまったら、またしばらく電車が来ない。鼻血が出ようがハンカチが真っ赤になっていようが私はその電車に乗りたかったのだ。そのときにポケットティッシュをくれた女性は女神に見えた。

そして、その高校生のときに、自分を救ってくれた女性が現れたのは、今、この私がまさに隣の女性にポケットティッシュをあげたからなんだ、となぜか確信した。

いやいやいや、ちょっと待ってよ、あのときポケットティッシュもらったのが嬉しかった「から」、今回、他の人に同じように優しくできたんでしょ

頭の良いあなたはそう思うに違いない。でも、違うのだ。いや、別にちがくないけど。でも、私は違うと思った。先に「未来の結果」が「あった」のだ。未来の私がポケットティッシュを見知らぬ女性にあげたという事実が「あった」から、過去の私がポケットティッシュをもらうことができたのだ。因果応報の因果は、過去から未来に移るとは限らないのだ。

何をおっしゃるうさぎさん

亀のように堅実なあなたはそう言うに違いない。でも、そういうこともあるのだ。

亀といえば浦島太郎。子供の頃、私は不思議に思っていた。浦島太郎は、良いことをしたのに、最終的に、急に老化するという悪い結果に陥ったのは、なぜだろう。それまで、昔話の原則であるように思っていた勧善懲悪が、浦島太郎には当てはめられなかった。NHKの人形劇では、浦島太郎は竜宮城にいって、年取ったお母さんが「早く帰ってくるように」といっていたのに、その言いつけを守らずにいたから、玉手箱を開けておじいさんになってしまった、というようなストーリーになっていて、さすがNHK。けれど、やっぱりお母さんの言いつけを守らなかったからおじいさんになっちゃう、というのは、罰として重すぎる気がする。これが浦島太郎が亀をいじめてて、亀が「いじめるのやめてくれたら、竜宮城に連れて行ってあげるよ」とか何とか言って騙してっていうのなら、まだわかる。でも違うんだもんな。

それで思った。もう「おじいさんになる」ことありきだったんだと。未来で浦島太郎が玉手箱開けて「おじいさんになった」から、つじつま合わせるために亀が登場するしかなかったのだ。なんせ玉手箱は竜宮城にあるんだし、竜宮城には亀に乗らないと行けないんだし、亀が浦島太郎を背中にのっけたいと思うには、亀はいじめられていないといけなかったんだ、と。いじめていたのが浦島太郎じゃなくて子供だったのは、たまたまだ。それはどっちでもよかったんだから。

これは、予定調和説を唱えているのではない。未来は既に決まっていて、変えることができないんだとか、絶望せよとか、そういうことを言いたいのではない。

ただ、世の中の人の多くは、何か原因があって、その結果として今があるみたいに思っているけど、違うと思う。うまく言えないけど、それだけじゃないと思うんだよね。そういうこともあるけど、逆のこともあるって思う。だってきっと、神様の時間の感覚、私たちと違うからさ。未来があっての過去もきっとあると思う。神様にとってどっちが先だったかなんて、関係ないんじゃないかなって。

このテーマは、私にとって大きいので、今後も手を変え品を変え、折に触れ伝えていきたいと思います。

また明日!明日は、土曜なので、個人的なゆるい感想とか日記を書こうと思います。

#エッセイ #ライフワーク #浦島太郎 #因果応報

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