sao

みんなちがって、みんないい。をモットーに子育て中。長男次男の義務教育終了。長女は小4に…

sao

みんなちがって、みんないい。をモットーに子育て中。長男次男の義務教育終了。長女は小4になりましたが学校へはたまにしか行ってません。この道がどこへいくのか楽しみ。

最近の記事

ひとり言

これはもうただのひとり言なのだけど、 今日は11月11日だと娘に聞かされ(娘はポッキーの日だと言っていた笑)、 そうか、今日は11月11日かと。 そして最近やたらと11:11の時刻を目にするな〜と思っていたことと、 そしてそして今朝頭の中でまた自我の想念と格闘していたら、 「浮かんでくる想念を楽しみなさい。それが個我であるということです。」 というようなニュアンスの言葉が浮かび、 そうか、「臨在(ただ在る事)」の先の「創造」とはこのことか!とわかり、 私は私で在ることを、 そ

    • 身近な人の死

      先日母が 「夫婦(の死)は別」 「あなたも連れ合いを失えばわかる」 というようなことを言っていた。 どういうことだろうと考えてみる。 母は小さい我が子(私の妹)を交通事故で亡くしたことがあり、 20代のときに実の姉も病気で亡くしたことがある。 でも20年ほど前に自分の母親を亡くしたときは父親を亡くしたときとはまた全然違う感じだったと言っていた。 自分の父や姉や子の時と比べて、 悲しみの質が違うように感じていたらしい。 それは自分への無償の愛を注いでくれる人がもういな

      • 自我と本質の対話

        「ほらほら上手なことを言えない自分にもっと苦しもうぜ」「人と違うという意識にもっと苦しもうぜ」 そんな風に自我さんが言ってくるけれども、 本質の自分は、 「そうではなく、みんな同じだ。そもそもはひとつだ。」と知っているから強い。 たぶんこれから益々自分の視点で語ったことがうまく伝わらない状況を体験するし、 「伝わらないかも」と常々思っているから、 そういう現実を創造してしまうのだろう。 本質の私が言う。(以下、心の会話) *

        • 「何かをしなければ」という罪悪感

          この罪悪感がこの社会で培われてきた大きなもので、 自分の中にも大きな障壁となっていると感じている。 「何もしていない」というのは、 外から見たときの状態のことで、 実際の自分の中ではなんとか泥沼から脱しようと右往左往しているのだけど、 常に「あんた何もしてないじゃないか」という罪悪感の声に心が疲弊してしまう。 だからなんとか用事をつくる。 「そうだ、あれをしないと」と自分を誤魔化し続けている。 私の場合は主に今晩のメニューとか、 子どもの教育について考えたりとか、 金銭的

        ひとり言

          真理を認識するには勉強しかなく、真理を知ると勉強は必要ではなかったとわかる

          私は今50才近くなって初めて「勉強が楽しい」と思えるようになった。 なので興味のある論文とか哲学書なんかの専門的な活字に触れるときは、 眉根をよせつつ「この言語の真意とはこういうことだよね」と確認しながら読んでいる感があって、 まあ時間がかかる笑 若いうちに勉学の楽しさを知り、 いちいちその回路を繋げようとしなくても自動的にその言語の意味が繋がっている方は、 巧みに言葉を操りながら筋道をたてていく。 凄いな。 面白いなと思うのは、 難しい言語を操って表現しようとするもの

          真理を認識するには勉強しかなく、真理を知ると勉強は必要ではなかったとわかる

          「神」の捉え方についての気づき

          私は日本人なので“八百万の神“の概念が頭ではなく心ですんなりと受け入れられる。 “すべてのものに神がいる“という概念は、 感覚的に「知っている」ものとして日本人として生まれたことで認知している気がする。 ではなぜキリスト教のような一神教が日本人にとっては一見胡散臭く感じるようなところがあるのか? それは一神教について知識として頭で考えてしまうから。 聖書のようにカタチとして残っているものは、 頭だけでその概念を考えてしまうと多分に誤解されやすく、 そこにある言葉の本当の意

          「神」の捉え方についての気づき

          「不登校」の捉え方

          実家に帰省した際に姉が身近な例として子どもの同級生の不登校者について話していた。 その男の子は学校に行きたい気持ちもあるけれど行けないのだという話で、 その子の母親はとにかく悩んでいたらしい。 学校の行事でバスに乗る機会がありクラスの友人に誘われたこともあって、 本人が自宅の部屋でリュックを背負ってウロウロと歩きまわり、 行こうか行くまいか迷っていたらしい。 結果本人も勇気を出して行くことにして、 母親もそれを見ていた同級生の親たちも、 クラスメイトも先生も、 もちろん

          「不登校」の捉え方

          ききたい言葉

          真理や哲学について書かれた書物の多くは男性によって書かれたものが多いので、 当時の文化背景の影響や常識的な感覚を元に、女性的な目線で考察している文献はないものかと探している。 それは、男性を主軸とする社会に横たわる真理のカケラを、 女性を主軸としたときにいかにその真理から離れているかを感じたいからで、 フェミニズムという発想はまさにそれかなと。 でも、フェミニストといわれる女性の多くはその男性社会の未熟さを指摘してまわるようなものばかりで、 私はそこから男性女性関係なくみ

          ききたい言葉

          日本観について

          少しずついろいろな日本観に触れていて、 今感じていることをメモ的にまとめておこうと思う。 まずは、なぜ日本人は「個」よりも「社会の一員」としての自分を大事にしてしまうのかについて。 今は縄文ブーム的なこともあり、それも日本人の気質にとても関係あるような気がする。 原点回帰的なことなのかもしれない。 長らく続いた縄文時代。 他国では観られないような平穏な時代は文化として発展していないという見方もあるし、 “足るを知る”という風に捉えたら良くも見える。 誰かから何かを奪って

          日本観について

          自由は笑い話になる

          物事をどう捉えるかがその人の人生を表している。 例えばいじめられた嫌な記憶を笑い話に昇華してその人の人となりを表現できたとき、 それこそが「自由」なのだな。 それはいじめという経験をどう人生に活かしていくかの表現で、 そこに他人からのジャッジが入ると自由が歪んでしまう。 「他人のことはほおっておきなさい」の本当の意味は、 それについて意味づけできるのは当の本人だけなのだから、 もしそれを聞いて自分が何か思ったとしてもそれがそのまま相手と同じかはわからないのだから、 むし

          自由は笑い話になる

          今日もリンクになってくる

          「お母さん、今日もリンクになってくるわ」 「ちょっとゼルダの世界に行ってくるから」 そう言って私の『ゼルダの伝説』ゲームプレイが始まる。 とはいえアクション系は超苦手で『ゼルダの伝説』も長男がTVでやるのを横目でチラッと観ている程度だったのだけど、 その世界観がどうにも気持ちよさそうで、 できるできない以前に「私もリンクになって冒険してみたい!」という気持ちからゲームを始めた。 草原を駆けて、山を登って、自然の雄大さを感じながらゲームをするのがすごく楽しい! でも、やっ

          今日もリンクになってくる

          宗教と私

          今いろいろな宗教に興味があって、 どの宗教はどんな事を言っているのか少しずつ勉強中。 一般的なキリスト教や仏教、あとはイスラム教とかヒンズー教とか宗教は奥深いのでまだまだ知ることがたくさんあるのだけど、 とにかく今抱いている感想としては、 宗教は真理をどう解釈して生活に活かしていくかということで、 そこに文化などの環境背景が絡んで、 なんとも歪んだものが生まれやすいということ。 それも含めて興味深いんだけど。 例えば私は若い頃にバイト先で仲良くなった(と思っていた)人に、

          宗教と私

          「どっちでもいい」の意味

          いろいろな視点からの言葉を読み聞きして、 もう究極はこれだな、と。 「どっちでもいい」 それは後ろ向きな「どうでもいい」ではなくて、 どんなこともすべて前向きにできるから、 「どっちでもいい(どっちでも大丈夫)」なのだ。 『道徳的な行いをしているのは、社会がそれを道徳的と認めたから』だとすると、 物事に正解はなく、 捉え方の問題だけが残る。 だとすると、 私が自分事として考えている結婚観や教育観、 女性観や社会観などの問題と捉えている部分が、 前向きな「どっちでもいい

          「どっちでもいい」の意味

          母親としての見方を整理する

          母であるということを考えるときに、 母親とはこういうものだという外側の価値観と共に、 自分にとって“良い母とは”という内側の価値観があって。 でも自分にとって最適と思われる価値観でも、 子どもの価値観を通して物を見たときに、 「それは違うだろう」「なんでこうしてくれなかったんだ」みたいなこともあるわけで。 自分の親への見方と、 親としての子どもへの見方と。 両方を考えてみたら、 期待値が高ければ高いほど、 そこから外れたときのショックが大きくて。 価値観は育ってきた文

          母親としての見方を整理する

          承認欲求

          夫は今筋トレにハマっている。 晩酌をやめて筋トレに励んでいることで自分に自信がつき、 身体の調子が良くなるのはとても良いことで。 だのに、ああだのに、 鏡の前で自分の身体をチェックするのはいいとしても、 褒め言葉のカツアゲのように私が感じてしまうような夫の行動の数々に少しイラッとしてる私もいるのです。 きっと肯定的な言葉が欲しいんだだろうな、とか思うたびに、 「いや、子どもか!」とツッコミを入れたくなる気持ちもあるわけで…。 翻って、自分の中にも他者からの承認欲求があ

          承認欲求

          自分問答

          この人には何を言っても無駄だろう的な思いをもつことがよくある。 自分の持ってる価値観といわゆる常識と思われている価値観が違いすぎたとき、 「なぜそう思うのか」の価値観の説明が相手に伝わるように上手に説明できないからだ。 相手がこちらの言うことを聞いてポカンとする瞬間というのが最近特に多く感じて、 その結果会話のコミュニケーションを諦めてしまうのだ。 会話を相手に合わせて、 相手の持っている(一般的な)価値観で、 話すことはできる。 でもそうなるとそれはただの世間で起きて

          自分問答