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歴史に刻まれるべき大名曲 エレファントカシマシ 『友達がいるのさ』

私の好きな東芝EMI期の楽曲、それは16枚目のアルバム『風』に収録されている『友だちがいるのさ』である。この楽曲はファンの間でも非常に人気が高い。また、宮本自身も非常に気にいっている楽曲らしく頻繁にライブで演奏されている。東京という歴史ある大都市に住む己を豊かな風土と共に歌い上げる壮大な楽曲である。正直に言うと私がエレファントカシマシの優れた楽曲郡の中で最も好きな一曲である。バッハやベートベヴェンを聴けばヨーロッパの絢爛たるキリスト教文化に基づいた風景が浮かぶであろう。ピンク・フロイドを聴けば鬱積した上流階級への反撥が煙たい工業地帯と共に浮かぶであろう。ビーチボーイズを聴けば西海岸の長閑な波打ち際と自由の国に隠された痛みと影が思い浮かぶであろう。そして私に言わせれば『友達がいるのさ』という楽曲は音楽性、文学性双方の観点で著しく優れている。元来、曲に詩を載せると言う行為は聴き手の想像を非常に狭めてしまうものである。故にクラシック音楽というのはオペラを除いて基本的に歌詞を伴う楽曲はないし題名というものも存在しなかった。音楽に文学を持ってきてしまうと先述した通り聴き手の想像を阻害してしまう恐れが懸念されるからである。そういいった意味でベートーヴェンの『田園』は非常に革新的かつ画期的であった。芸術というのは無限の広がりがあるものを最も優れたものとしている。然し、エレファントカシマシの『友達がいるのさ』は歌詞に”東京”という限定要素が開幕から(この曲はイントロが存在しないので)歌われている。人名を提示する楽曲は多く存在するがこの曲の主人公は地名である”東京”でもある。土地が主人公である楽曲は非常にレアケースではないだろうか。一見して無限の広がりがない様に思えるが、『友達がいるのさ』では”東京”という限定的な題材を提示することによって東京で培われていった歴史、文化、生活、民族、個人的な思い出、それらが聴き手の中に無限に拡がって行くのである。

『友達がいるのさ』を読み解くためにはシングル盤のジャケットが大いに役立つが現在そのシングルは絶版で有るためそう簡単には手に入れることができないのである。然しながらネットというのは便利なもので画像検索でヒットした。それが以下の画像である。

上は表紙である。先ず目につくのは連山の後に富士が聳え立ち手前に道、道の先に鳥居?の絵である。宮本が描いて絵であろう。そしてその周りに『友達がいるのさ』の原子である様々なキーワードが書かれている。見辛い部分も多いが私が解読できたものを上から順に書き連ねてみよう。解読不能な文字はーーとした。

画像1

『我々はーービル道、あふれる人々コンビニのーー暗闇の心配さえみえるーーーーーー明るすぎる夜を.「0から東京のけしきをつくった人々の気持ち」ーーー絶望・希望・メロディ.おれは口びるから宇宙ーーたっている おまえは何をしたいかい? 本当は絶望だって希望だって死ぬほどもっていないかい? にもかかわらず 中庸でいる自分がーー ーーもそい本当の俺がーーかいまみえるだろうが 目△本来あるはずの 大地の鼓動がもと分かる 東京中の電気を消し 夜空を見上げる 岡が見えそ 宮ー 誰かは感動とーー あの父祖のエナジー かんじられるだー人間が本来 やら欲望ー』

裏面の解読に移ろう。

画像2

『角のを本屋で 角の本屋 神保町の本屋で 神 神保町の本屋で二・三冊 俺は本を買って ー 本 帰りの電車の中でページを繰ってみた 智恵を 智恵を俺に 力を俺に 天気がいいと俺は遠くへ行きたくなる 東京からぞと 一時間も電車にのれば いいところが いくらもある。 俺は理由もなく出かけたくな』

解読は以上である。

宮本が常に思想を一縷でも知ることができるのはファンとして大変に嬉しい。いかにして『友達がいるのさ』が出来上がってきたかが明瞭になる。そして裏面のキーワードは21th『MASTARPICE』に収録されている『七色の虹の橋』につながっていることが分かる。宮本のノートを解読するだけでも様々な発見がある。ぜひともいずれエレファントカシマシの資料として発売して欲しく思う。

少し逸れてしまったが本題である。

さて、『友達がいるのさ』にはイントロがない。宮本の呟く様な『おい、』から歌が始まる。

東京中の電気を消して夜空を見上げてえな
かわいがってる ぶざまな魂 さらしてみてえんだ

明滅する東京の摩天楼の光が一斉に消えた時夜空は果てしなく綺麗だろう、なんとロマンチックな歌詞であろうか。そして未だ解き放てずにいるが飼い慣らし可愛がっている自らな魂を、その体たらくを一度晒したい、然し晒せない。宮本の悔しさが伝わってくる。

テレビづけおもちゃづけ
こんな感じで一日終わっちまうんだ
明日 飛び立つために 今日はねてしまうんだ

これは我々人間が送りゆく生活そのものを非常に精巧に描いている。何かやらねばならないことがあってもつい、携帯やゲームやその他に囚われてしまい徒然と過ごしあっと言う間に夜が来てしまう。明日はうまくいくだろう、淡い期待と共に眠り入るのである。

ここでサビに行くかと思いきやもう一度Aメロをリフレインする。

電車の窓にうつる 俺の顔
幸せでも不幸でもなかった
くちびるから宇宙 流れてく日々に
本当の俺を見つけてえんだ

宮本の日常である。電車移動の宮本は電車の窓ガラスに映る自らがフと目に入りその何の感情もない顔を見て現在、幸せとも不幸とも言えない今を過ごしていることに再び気づく。このやるせない気持ちは『ライフ』に収録されている『暑中見舞い-憂鬱な午後-』にも歌われている。

幸せといえば言えちまう 天国も地獄も知らない果敢なさを 『暑中見舞い-憂鬱な午後-』

宮本は歌手である。故に唇から歌を吐き出しその言葉によって宇宙を築いている訳だ。その日々の中でどの自分が本当の自分なのか結論したいという宮本の本音が垣間言える。

ありふれたメロディー ぬけられぬセオリー
カバンにつめこんで

なかなか自らの思い通りにならない楽曲制作並びにリアルな日々を捨てずに懐に入れよう、ということである。言い換えるならば、

満たされないまま 引きずり回して歩け   『俺の道』

である。

俺はまた出かけよう あいつらがいるから
明日もまた出かけよう 友達がいるのさ
俺はまた出かけよう

ここでサビである。宮本の得意とする高音でありながらどっしりとした声で歌い上げられる。宮本の出かける先に居る友達たち=エレファントカシマシのメンバーたちの顔が思い浮かべることができる。そして宮本はまた出かける。

「おい、あいつまたでっかい事やろうとしてるぜ」

間奏。宮本が呟く様に語る。これは果たして誰に対する言葉なのであろうか。同時代に生きるミュージシャン達かあるいは自らの果敢に挑む態度に対してなのだろうか。どちらにせよ宮本は誰かがでかいことをやろうとしているのを傍観しているわけではなく自らもさらに挑戦し続ける姿勢をこの呟きから感じることができるだろう。

東京中の電気を消して夜空を見上げてえな
お祭りの日を待つ子供の様に
待ちつづける俺を笑いてえんだ

二番。最初の歌詞こそ同様であるがその後の比喩がぶっ飛ぶほど巧みである。成程、この歌詞は紛れもない純文学であるな、私はここで確かに感じた。何て感動的なそして情景が浮かぶ歌詞なんだろうか。素晴らしい。

サイコーのメロディ 終われねえストーリー
五感にしみこんで

ここで一番とは対照的にポジティブな語彙が連なる。”終われねえストーリー”どんな言葉よりも生を肯定してくれる。

俺はまた出かけよう 街は動き出した
明日もまた出かけよう 俺はうまくやるさ
俺はまた出かけよう あいつらがいるから
明日もまた出かけよう

二度目のサビ。”街は動き出した”全く詩的でありながら説得力がある。本当に街が動くいている様に錯覚する。そして”上手くやるさ”というのも素晴らしい。確かな確信などどこにもない。ただ、上手くやるのである。畢竟するに

どうせやるならドンとやれ   『花男』

である。

乱立する文明のはざまを一笑、一蹴、偏執、哀愁
歩いてゆくぜ!

ここから宮本の語りである。ガストロンジャーほど荒々しくはないもののそれと同等にあるいは(また違ったベクトルで)力強い語りである。宮本は日々外界に繰り出している。普通に通り過ぎてしまう様な景色もしかと己の目に焼き付けている。宮本の憧れる鴎外や芥川、とりわけこの場合は荷風の如く『東京』という街を観察している。故にこの歌詞である。文字通り乱立する摩天楼の合間を歩く宮本は情緒もなにもなくなってしまった愛すべき東京の街をせせら笑い、現実を蹴って、古の江戸に偏執狂的な愛着を見せ、然しながら宮本自身が生まれ育った時代の原風景を思い哀愁がチラリと漂う。実に美しい男である。その生き様が。

飛び立つぜ! 歩き出すぜ!

まるで夜の東京を渋谷を六本木をそして上野を宮本が歩き回り何かを生み出そうとしている姿が想像できる。

東京中の電気を消して夜空を見上げてえな なんてな
YEAH!

私はいつもこの曲を聴くたびにここで涙を流すことを禁じ得ない。”YEHE!”と歌詞カードには書いてあるが”デー”に聴こえる。宮本の生命が、言い換えるならば”父祖から受け継いできた大地のエナジー”がこの咆哮に詰め込まれている様な気がするのである。そして咆哮の後の少し満足げに笑うのが格好良い。

歩くのはいいぜ! 俺はまた出かけよう
乱立する文明のはざまを一笑、一蹴、偏執、哀愁
おい出かけよう 明日も あさっても
また出かけよう

そして宮本は歩くのである。どんな時でも必ず朝が宮本をそして我々を迎えに来てお天道様の下歩むのである。それが定であり、また幸福なのである。エレファントカシマシはいつでも”当然”ということが如何に掛け替えのない幸せなものなのかを教えてくれる。

以上の理由から私はこの『友達がいるのさ』は類稀なる日本語の歌としてまた、日本人にしか表現ができない歌として歴史に残る楽曲であると本当に思っている。是非、聴いてみて欲しい。


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