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「超監視超管理社会」という言葉の語感に思うこと。スーパーシティー法案。


私自身は、「超監視超管理社会」といわれると、ハイテク社会によって効率的な経済活動が行われるというような、ワクワク感を覚える。


普通、法案に反対しようというときには、マイナスのイメージがつくようなレッテルを張るのだが、「超監視超管理社会」というのは、そのようなレッテル張りには失敗しているように感じるのである。


この法案については、本来の名前は「スーパーシティ法案」だそうだで、こちらのネーミングセンスについてもどうかとは思うのだが、いずれにせよ、私は、どちらかというとこれらの語感には「良い」イメージを持つ。


Twitterでは多くの人が政府が個人のプライバシーや情報を管理することに反対しているのだろうが、はっきり言ってしまえば、プライバシーや個人情報の保護は当たり前に行うべきことなので、反対する根拠とするには非常に弱いだろう。プライバシーや個人情報を政府に渡さないとすると政府からの支援を何も受けたくないというような、極端な発想になりかねないと思うのだ。


いずれにせよ、行政の在り方としては民間と同様にデジタル化・ハイテク化を進めていくべきなのだから、このような方針に反対するには、相当な覚悟(自給自足的な生活をしていくような覚悟)が必要だろうと感じる。


前に、超長期でみると個人の存在が通貨の代わりになるのではという記事を書いたが、長い目で見れば、AIや5Gなどのテクノロジーを駆使することで、我々の生活水準は引き上げられ、安全安心な生活を送ることができると思っている。そのためには、プライバシーを守ったうえで、管理監視を強めるべきだと考える。それは、我々の安心安全を守ることにつながると考える。


交通事故や近隣住民とのトラブルというのを例に考えてみよう。交通事故やあおり運転に遭ったときに、相手の過失を認めさせるにはドライブレコーダーの情報が必要なのは明らかだろう。同様に、近隣の住人の騒音に我慢がいかないほどで相手に丁重に申し入れても聞き入れられない場合、騒音計のデータを示せばトラブルは収められるだろう。このように、テクノロジーを活用して管理・監視を徹底すれば、安心安全の生活が国民全員に提供できる将来が見えてくるのである。


そう考えれば、「超管理超監視社会」という言葉に「良い」語感を覚えはしないだろうか。確かに、安倍政権という信用ならない政権に情報を渡したくないということや超長期的な問題の話ではない、といわれればそうかもしれない。しかし、語感という点においては、私は「超管理超監視社会」という言葉は安心安全な社会をイメージするので、悪いイメージは持たない。


もし、「超管理超監視社会」という言葉に悪いレッテルを張るという意図があるとすると、一部の人に対してはあまり成功とはいえないかもしれないのではないか。


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