人の認識領域の基底を構成している「偏見」というものについての覚書

「思索的」にものを書く上で肝心なことは、知識や認識をはじめ、既知と思われている「何もかも」を一旦カッコに入れてみるつもりで書くことだ。この「括弧に入れる」というのは主として現象学などで頻出する用語法なのだけど、ここではさしあたり「物事の判断を留保する」というふうに把握して欲しい。たとえば「脳はいかにしか意識を作り出しているのか」という「問い」に対しても、全く別様な構え方がある。「そもそもその問いは何を語っているのか」というメタ問題的な観点を立てる余地がある。これを「問いの見直し」と呼ぶ。

人は常に「偏見」を通して「世界」を解釈している。「偏見」は人によって「しばしば抱かれるもの」などではない。それを「人間にとって好ましくない見方」とする価値判断にも僕は与しない。「偏見」は人の認識領域を根底から隅々まで規定している。というのも、人の「経験」は「客観的実在世界」に対して本質的かつ個別的に「局限」されているからであり、しかもそれら個々の「経験」内容を全て合わせたところで、「客観的実在世界」の全てを記述したことにはならないからだ。人が物事をどのように語ろうと、その語りはその人の「経験世界」を超え出でることはない。たとえば、いわゆる「視覚的経験」における「青」とは、「その物質に本質的に備わっている青」ではない。「私の今ここ」という現存在において、「青という経験」があるのだ。「誰もが私と同じような青を経験している」と確信できる根拠はどこにもない。そもそも「他者が私と同様の経験世界を生きている」という根拠さえ存在しないのだ。

このような、「経験世界」にまつわる一切の語りを、僕はためらうことなく「偏見」と呼ぼう。広義に取れば、あらゆる認識・意見・判断は、「偏見」の範疇に属する。つまり「偏見」こそ人の基底的な認識作法なのであり、「偏見の克服」という試みさえ、何かしらの「偏見」を土台にしないと出来ないようになっている。そこのところを掴み損なうと、人の「偏見」作用の幅と根深さを、明らかにを過小評価してしまう。もちろん、「偏見」にまつわるこのような分析言語も、やはり「偏見」の域内を出ない。

ところでどんな分野においても「常識の衣を着たタワゴト」が溢れかえっている。そうしたタワゴトの最大の詐術は、なにかしらの「偏見」を一つの盤石たる「既成事実」として見切り発車してしまう点にあるのだけど、そのせいで当該の「偏見」はますます見えにくいものとして自明視されるようになり、聞き手や読み手のあらゆる注意を最初から逸らすようになる。

たとえば、「この世界に生まれることによって人は生涯苦しみを経験する。だから人は生まれてこない方がよい」という言説があるとする(「反出生主義」を自称する人々が好んで叫ぶフレーズだ)。ただこの言説の底にはある重大な「偏見」が隠れている。この「偏見」によれば、「この世界に生まれてこない」すなわち「苦しみがない」ということなのだ。「この世界」に「苦しみ」(と呼び慣わしている経験・意識)が多くあることは、僕も「経験上」分かる。けれどもこの「苦しみ」の原因を「生まれること」と密接に関連付けたがる「判断」には、一体どんな論拠があるのか。それは自明なことなのだろうか。それは少しも自明なことではない。「この世界に生まれなくても苦しみの経験はありうる」という観点を見落としている点で、先の反出生的言説には「思索性」があまりに乏しい。修辞的にはともかく、哲学的には素朴に過ぎる。出直してこい手前ら、という気持ちになるのだ。日々生活に喘いでいる身としては、心情的によく分かるのですけど。せめてもう少し考えましょうよ。僕も「思索する者」として何かと反省することが多い。思索を突き詰めていくと何も書けなくなるだろうことにも、薄々気がついている。

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