「婚姻」も「子供の誕生」も祝福には値しないということ

誰かが結婚したり子供が生まれたりすると、人はよくお祝いを伝えたり金銭なんかを贈ったりするけれど、こういう習俗は本当にタチが悪いので認識を改めないといけない。よくいるんだよ、やれ「出産祝い」だの、やれ「祝儀」だのと、やたら気を配っている律儀な御仁が。おいおい、なんでお前たちは他人の性的イベントにそうやっていちいち振り回されているんだって憤激しそうになる。お節介もここまで進行するともはや治療対象というべきだろう。他人のことは放っておくという「大人の美徳」を、彼彼女は知らない。心的発達不良とはこういうことだ。そういう落ち着きの無い俗人どもはたぶん年賀状も毎年飽きずに出しているのだろうし、お歳暮とかお中元の類も欠かさずに贈っているのだろうし、「母の日」とか「父の日」みたいな下らない商業的感謝イベントにも無視を決めこめないのだろう。「誕生日祝い」なんかもきっと欠かさずにやるんだ。ものを考えなくなるというのは恐ろしいことですね。

いまさら僕が繰り返すのも野暮かもしれないけれど、人の世にめでたい「こと」などありはしない。贈り物や祝福に値する「こと」もない。いわゆる「死」さえめでたいことではない。「死」によってあらゆる「苦痛的現存在」が幕引きになることを誰も実証できないからだ。「生きる」ということは総じて不快と不安と不満とに貫かれた「不毛なる日常経験」なのである。漫然といつまでも続く受難なのである。どんな「不幸」でも起こりうる「痛みの世界」、「涙の谷」なのである。たまにある諸々の快楽もそうした日々の受難上に咲く徒花に過ぎない。「既にそこにある」という生存意識は呪うべき対象であっても祝うべき対象ではない。

おおむね「婚姻」というのは互いの肉体的所有関係を法律なり約束なりを介して確認しあうだけの理不尽的拘束イベントに過ぎないし、「生まれてくること」も子供の当人にしてみたらおおかた「災難」以外の何ものでもない。子供を欲しがっていた当人たちにとってさえしばしばそれは悔恨の源泉になる。のちにその子供がほとんど手に負えない「ダメ人間」になった後で「こんなはずではなかった」と呪詛の言葉をぶちまける。慟哭する。そうなると子供は決まって「産んでくれと頼んだ覚えはない。この不幸は全部お前らのふしだら気まぐれな性欲のせいだ」と反撃する。生きている限りいくらでもお前らに迷惑をかけてやるぞ、とますますその「邪悪性」を強化する。世で言うところの「引きこもり」や「ニート」のなかには、こうした煮えたぎる復讐感情を頼りにしないと生きていけない人間が一定数ある。傍から見てそうした復讐感情ほど清く正しいものはない。もっと存分に発揮して周囲に大迷惑をかけてやればいいのにと思う。なんなら赤の他人まで巻き込んでしまえ。

大事なことなので、もう一度言おうか。「婚姻」や「出産」は「めでたいこと」ではない。両方とも罰金でも取られて然るべき行為なのだ。これほど苦しく残酷な「世界」に別個体を産み落とすことをやすやすと見過ごせるはずがない。「なんとなくみんながやっているから」みたいな惰性的情緒によって子供を作る奴らは、どんな悪人よりも悪人的だ。よほど鈍感で悪趣味な人間でもない限り平気の平左でいられないと僕は信じている。世の子作り夫婦にも少なくとも幾分かの心疚しさくらいは覚えてもらいたいのだ。もし子供を「持って」しまったのなら、せめて自分らの恥を噛みしめながらその子供を世話してもらいたいのだ。子供がどれくらい出来が悪く「わがまま」であっても、愚痴めいたことはひとつも言うなよ。お前ら夫婦のほうがその数千倍「わがまま」で「淫乱」なんだからな。そこを忘れると「道を外れた子供」にいつか殺されるぞ。

乱文御免。どうもありがとう。

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