映画「風立ちぬ」感想(ネタバレ)

映画「風立ちぬ」感想(ネタバレ)

今度「KIHARA劇場」という多くのジブリ作品に制作として関わった木原浩勝木原先生とジブリ作品についてイベントをやるので、

ふと、ボクも昔、ジブリ作品について書いた記事があったなぁ。と想い出して発掘してきました。公開当時のレビューです。

ただ、この時とはちょっと今は違いこれは「男のエゴ」だけではなく「女のエゴ」についても描かれた映画ではないかと思います。

また公開当初はあまり取りざたされなかった、男女の問題。

最近、よくネットでにぎわうフェミニズムをめぐる論争。

「男の人生」と「女の人生」のプライオリティの問題にも触れるテーマであったかとも思います。

そこらへんもイベントで話したいと思っています。

以下、レビュー。

『この映画で泣けないような男は、

一度も、命がけで恋も仕事もしたことのない男だ』

 最初見たとき傲慢にも、そう思った。そしてすぐに後悔した。

 この映画は、まさに男の浪漫、空駆ける夢。そして男にとってご都合主義的ではあるかもしれぬが実に美しいせつないラブロマンスではないかと素直に感動した。

 しかし、観ていくうちに、じわじわと違和感が沸いてきて、やがてそれは罪悪感のような物に変化して、ボディブローのように効いてきた。

観終わった後では、最初の印象と違って、とても美しいけれど同時に、とても怖ろしい映画に思えてきてしばらく呆然とした。

 結論から言ってしまえば本作はアニメというカテゴリーを越えて、日本映画の中でも屈指の名作に数えられるべき作品である。

 しかし、ジブリの中でもナンバー1の作品であるかと言うとそうは言えない。

なぜなら、本作はこれまでのジブリ作品と一線を画す。

と、いうよりもまったくの別物だからだ。

これまでジブリ作品はまがりなりにも観客として強く子供を意識して作られていた。

そして子供と大人たちに、世界の美しさと人間の営みの素晴らしさを描いてきた。

どんなにその裏側に風刺や毒を含んでいたとしてもその一線は越えなかった。

 だが本作は違う。

本作は子供ではなく大人に向けている。しかも人生の酸いも甘いも噛みしめたことのある中年以降の男性。そしてその中でも、何かを創造する仕事か、技術を極める仕事、もしくは一時でも自分のすべての力を費やして仕事や芸に没頭した経験のある者というごく狭い層に向けて作られている。

その目的と意味については後述しよう。

 本作は、そられの人向けにとともに、宮崎駿が宮崎駿自身に向けて作った映画に違いない。

人は死ぬ前に自分の人生を走馬燈のように見ると言う。

この映画は宮崎駿が自らの人生を、人生最後の走馬燈のように描き出したものなのである。

そう考えるとラブロマンスがご都合主義なのも、描かれる日本の過去の風景が美しすぎるのも、飛行機が素晴らしく魅力的なのも納得がいく。

これは宮崎駿の美化された末期の夢なのだ。

 表面的には美しい夢物語りでありながら実は、先に述べたある種の男たちの救いようのない薄情さと、世界のどうしようもない残酷さを描いている。

これまで人間の素晴らしさと世界の美しさを描いてきたジブリ作品の真逆のテーマを打ち出しているのだ。故に本作は絶望的である。

 主人公、ゼロ戦の開発者である堀越二郞は実に薄情な男である。その妹が約束をすっぽかされるたびにそう指摘するように。実家に何年も帰っていない。

しかし少年時代は下級生へのイジメを見て憤慨してケンカをし、関東大震災の時も見ず知らずの少女時代のヒロイン、菜穂子とその侍女を、体をはって助ける。そして貧しい子供にシベリアというお菓子を渡そうとする。

そのように、弱い人間を見捨てられない助けようとする優しさも持ち合わせている。

「優しさと薄情さの同居する男」

それが彼の本質でもある。

ここは覚えておくべき留意点である。

 故に彼は、己の夢、目的のためならば優しい心も麻痺させ、思考停止させる事もできる男なのである。

彼は日本の破滅的な将来が予測できないバカではない。

それは軽井沢での、外国人スパイ(おそらくゾルゲ)との会話でもあきらかである。

しかし、戦争は二郎には止められない。

 やがて迫り来る戦争を意識しながら、自分がこのままゼロ戦を開発していけば、どのような事になるか、はっきりと予感しながらも目の前に与えられたゼロ戦開発という職務をひたすら果たそうとする。

そして彼はそれに全力を尽くす。

「自分がやらなくても誰かがやるだろう」

「そして誰よりも自分がそれをうまくできる」

「自分がやらねばならぬ」

彼はそう思っているのだろう。与えられた課題が困難であればあるほど、クリアする事に挑戦し成功しなければガマンできない科学者やクリエイターの性とも言える。

 ヒロインである菜穂子との恋愛もそうである。

よく見ると二郞は彼女のためには積極的に自らは何も提案せず、何もしていない。

ただ求められて結婚し、側におだけである。

結核を患う彼女の枕元でなおも仕事に没頭しながら、ためらいながらも結局はタバコを吸うシーンは象徴的である。

ダメだよ。疲れているだろう。といいながら求められればセックスもする。そしてそれらは全て「求められたことに応えている」だけなのだ。

唯一、彼からの愛情表現が、出会いから別れまで何度も優しくささやかれる言葉だけである。

「綺麗だよ」と、

 自らの死期を悟り、二郞の仕事の邪魔にならぬよう、そして痩せ衰えて血を吐く、綺麗ではない自分を次郞に観られたくないがために菜穂子が山の病院に戻った時、

彼女にすがりつき追いかけて

「綺麗でなくてもいい。ともに血と汚物にまみれてもいいから」と泣いて引き戻すか、仕事を捨てて病院につきそう。

という選択肢は彼に微塵もない。

綺麗なままで、二郎の思い出に生き続けること。

それが望みとはいえ、あまりにも菜穂子が切ない。

彼女は知っていたのだ。

自分が二郞から愛されている理由を、

それは「綺麗だから」なのだと。

「綺麗だよ」は「愛している」ではない。

評価である。

そして彼女の意志通り、二郞は彼女を一度も見舞わずに菜穂子は死ぬ。

ゼロ戦試験飛行、成功の時、山から吹く風に菜穂子の死を、次郎は感じる。

 とはいえ、二郞は菜穂子を愛していないわけではない。いや彼なりに精一杯、心から愛している。

当時死の病であった結核がうつるかもしれないのに側に置き、何度もキスをして抱いている。

仕事をしながら一晩中、その手を握っている。

けれども彼はそれでも彼女のためには生きようとはしていない。

彼の人生の目的は己の夢のためである。

 二郎は鈍感なのではない。優しさもあり、愛する気持ちもあり、菜穂子の死に痛みも感じている。

しかしそれらを自分の夢のために無視して生きている。

だから「思いやりがあり薄情」なのだ。

もしくは非道なのだ。

仕事の鬼、夢を追う鬼なのだ。

 ボクが感じた罪悪感はこれである。

ボクは宮崎駿に問われたのである。

「お前もこの二郞のように生きてきたのだろう。そして生きていくのだろう?

それは誰かの多大な犠牲の上にあり、

その代償にお前はいつか大きな物を失うのだ」と、

だから怖くなったのだ。これまでの罪に震えたのだ。

そうかもしれぬと思ったのだ。

 そして本作は、そのような夢のため仕事のためなら、いかようにも薄情になってしまえる男のエゴと、そのエゴの集合体が作り出している「世界の仕組みの残酷さ」を描いた作品でもある。

 一人の恵まれた環境の天才が自らの美しい夢を追う時、天才ならざる幾多の者たちや貧しき庶民たちが引きずり込まれ、愛する妻や、多くの若者たちが戦争や特攻で散華する事もありうるのだと。しかしそれら犠牲の上に成り立つ芸術作品は罪深いけれどもなお美しいのだと。

二郞の夢の中で、伊太利亜の飛行機技師が次郞に問う質問がある。

「ピラミッドのない世界とある世界、どちらが好きかね?」

とはそのような意味ではないか。とボクは思う。

「ピラミッドがある世界」というのは、大勢の人間の犠牲を強いても一人の権力者か天才が「作る」と思えば作ってしまえるシステムのある世界。という意味なのだろう。

二郎の夢に出てくる伊太利亜の技師は言う。

「私はピラミッドのある世界を望む」と。

そして現実はと言えば、不幸にして私たちはその残酷な「ピラミッドのある世界」に住んでいる。

そう、現実のこの社会は「ピラミッドのある世界」なのだ。

誰かが「夢」や「理想社会」や「正義」や「平和」を実現しょうと決意した時に、ピラミッドは建ち、二郞がゼロ戦を作り、戦争は起こり、オッペンハイマーが原爆を作り、広島と長崎に落とされ、福島で原発事故が起こる。

そして多くの犠牲が払われる。

本作は直接的には、反戦を歌っていない。

だが今もどこかにいる堀越次郎的、オッペンハイマー的、東電的な人物に向けた、そして宮崎駿自身にむけた痛烈な批判と指摘なのではないかとも思える。

「夢は狂気をはらむ、その毒もかくしてはならない。美しすぎるものへの憬れは、人生の罠でもある。美に傾く代償は少なくない。」

宮崎駿監督はパンフレットでこう綴っていた。

この映画はたぶん宮崎駿が仕掛けた深い落とし穴でもある。

クリエイターや、技術者やビジネスマン。

多くの二郎的な生き方をする男たちが、己の業の深さの分だけ懊悩するように出来ている。

「お前が夢を追い、目の前の仕事に全力を尽くすということは、こういうことなのだ」という。

 そして「ピラミッドのある世界」つまりは「優しくて薄情な男たち」が、夢を追うためのシステムの出来上がった世界を、我々は明日も今日も生きねばならぬ。

滅びと再生を繰り返しながら。

「風立ちぬ、いざ生きやめも」

の意訳は、

「風が吹いた、生きようと試みなければならない」

だそうである。

その風の先に紅蓮の焼ける町が見える。

ゼロ戦の数多の残骸が見える。

累々たる屍の地獄が見える。

心から愛する人の死が見える。

そして地獄と後悔の業火に焼かれる罪深き己の姿が見える。

主人公、堀越二郎は、

「それでも生きようと試みなければならない。」

遺されたからだ。

そしてまだ風が吹いている。

ボクにもまだ風が吹いている・・・・

そしてアナタの前にも・・・・

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