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ヌードを撮ってもらった話

私が25歳の時、ヌード写真を撮ってもらったことがある。

お酒の席のふとした会話の中で "人生で一度はヌード写真を撮ってみたい” とそれとなく友人に話してみた。すると友人が ”直接の知り合いじゃないけど、プロカメラマンを紹介してあげられるよ”と言ってくれたのがきっかけだった。

その友人は私よりもひと回り年上の、仕事を通じて知り合った交友範囲の広い女性。口数が多い人ではなく、多くの物事は語らないけど、海外駐在経験があった彼女の発する言葉はいつも知的で、象徴的で、印象的だった。

聞くと、そのカメラマンさんは当時人気だった”NIGHT HEAD”というカルト的な人気があったドラマの写真集を手がけた人だという。武田真治やトヨエツを撮るような人が、ごく普通の女性を撮ってくれるのだろうか?とまず思った。

もちろん費用はこちらでお支払いする。半日の撮影でプロのヘアメイクさんがつき、六本木のスタジオ貸切、気にいったショットをA4サイズを10枚、全てのショットをLサイズで渡してくれ、ネガ付きで10万円とのこと。

私の収入を考えれば決して安くはなかったが、ネットもない時代、個人で信頼できるカメラマンを探すことはとても難しかった。自分でカメラマンを探し当ててまでヌードを撮りたいとも思っていなかったが、俄然興味が沸いて依頼することにした。

一人10万という値段は、2人一緒で、つまり合計20万という条件付きだったので、私は当時一番仲良くしていた友人Fに声をかけてみた。

彼女は "楽しそう!"と思ったことには気前よくお金を使う人で、"やるやる!”と即答してくれた。

私も、一般的な若い女性がファッションやメイクに使う費用と時間を、バイクのパーツかツーリングに費やすような人間だったので、彼女とはウマがあった。

そもそもなぜヌードを撮ろうと思ったのか。

高校生の時に、ディマシオという油彩画家を好きになり、その作品に描かれている非現実的な世界を背景とした女性の裸体のラインの美しさに衝撃を受けたのが、アートとしてのヌードに関心を持ったきっかけだった。

日本では北海道にディマシオ美術館もあるので、日本でも人気があるのだろう。

日本での初めての展示会にも、2時間かけて上京し、作品を観に行った。初めてリアルのディマシオの作品を観れたことに興奮と感動を抱えつつ、作品の絵葉書を数枚購入し、大事に持って帰ったものだった。

でも私はディマシオが好きだと誰にも言っていなかった。一見ファンタジーの世界を描いたように見える作風。当時周囲にディマシオが好きそうなは人はいなかったと思う。

アートの歴史においても女性の裸体はごくごく身近でなモチーフで、多くの作品に取り上げられてきたにもかかわらず、常に"芸術か猥褻か"の争いを起こしてきたモチーフでもあった。

おとなしい部類の女子高生だったから、周囲の大人に変に勘ぐられるのでは、と勝手に思い込んでいたのだ。

大人になってからも、女性のヌードを取り扱った作品が好きだと公言するのがなんとなく憚られたが、やはり人の身体はシンプルに美しいし、エモーショナルだ。ことさら女性の身体の美しさに今も惹かれて止まない。

人の外見についてコメントすることについて、日本では無頓着な人が多いが、ポジティブなフィードバックとして伝えたつもりでも、海外においてはNGだとされる。(私はポジティブなコメントはついしてしまいがち。。気をつけたい。。)

人の身体の美しさに基準を儲けることは、それぞれの存在を否定しかねない。誰もがありのままで良いと思うし、その好みもそれぞれだ。

だからこそ、自分自身の好きな身体のパーツを好きな状態で、なんらかの形で残しておきたいと思ったのだった。

撮影当日。現場のスタジオに友人と訪れた。六本木のど真ん中にもかかわらず、地下のそのスタジオはとても広々として静粛だった。撮影スペースの一角に、外光が上から差し込むように、天井の一部、3m四方程度ががガラス張りで作られた空間がしつらえられていた。

既にスタジオ入りしていたカメラマンさんとヘアメイクさんは2人とも男性だったので(解っていたけれど)現場の閉鎖性を見るにつけ、つくづく友人と2人でよかった、と安堵した。

程なくして、友人と、カメラマンさんと直接の知人だという女性がスタジオに入ってきた。

その女性は、"モデルをしてるの" と自己紹介した。派手な顔立ちではないが、はっとするような独特の雰囲気がある美女で、年の頃は40歳位に見えた。

アニエス・ベーのようなモノトーンでシンプルな服を、細い長身の身体にまとい、赤いリップがよく映えていた。すっきりとしたボブがほっそりした首筋と小さな顔を引き立て、今さっきカットを終えたばかりのように完璧にしつらえられていた。

"こんにちは、ごめんなさいね。心配でちょっとだけ様子を見にきたのよ。どうぞ撮影を始めて?”

彼女はハスキーな声でカメラマンさんと私たちに声をかけた。

こんな女性を前にして自分が裸体になるのは、正直なところ男性カメラマンの前で脱ぐよりもはるかに気後れしたが、今更そんな風に恥ずかしがっても仕方ない。

まずヘアとメイクを整えてもらってから、私たちは順番に着衣を取り、一糸まとわぬ姿で撮影が始まった。

撮影が滞りなく進みそうだというのを確認して、友人とモデルの女性はスタジオを後にした。

一緒に行った友人はいわゆる美女ではないが、スタイルが抜群に良い女性だった。特に手足がバランスよく長く、筋肉はしなやかに骨格を覆っている。どんなポースをしても、その身体の伸びやかさが美しかった。

私は、というと、美女でもなければ、特筆すべき身体のバランスの良さがあるわけでもなかったが、自分の身体で好きな部位が2つだけあった。

一つは胸から肋骨にかけてのライン、もう一つは鎖骨だった。

私の胸は身体つきに対して平均よりも大きめだった。走ると重くて痛かったし、セクハラという概念がなかった当時は職場でもあからさまに視線をぶつけられたし、学生時代はからかわれることも多かった。

しかし誰にどう見られようと、扱われようと、私の胸は変わらずディマシオが描いた様な曲線を描いて肋骨を覆う皮膚の上に降りていく。

そのラインがとても好きだったし、唯一自分の身体で自分自身が美しいな、と思えた部分だった。

鎖骨は自分では全く気づかなかったが、ある人に”鎖骨が綺麗だね”と言われてから、そういえば、と気づいてから好きになった。

周囲の女性たちを見ても、誰しも綺麗な身体のパーツが必ずある。男性たちは顔、胸や腰など性的な部位に視点をやりがちだが、私は女性の細かなパーツを見て、美しく魅力的だと思う。

肌の肌理、耳朶、後ろから見る足首の陰影、肩甲骨のライン。指の細さ、爪のかたち、眉尻、瞳の色。

じろじろ見るのは失礼なので、あからさまに視線を向けはしないけれど、はっとするような美しいパーツの持ち主と出会うと、目が離せなくなることがある。性的興奮につながるわけではないので、フェティシズムとは違うと思う。

そういえば、村上春樹作品には度々女性の”耳”の描写が出てくる。「羊をめぐる冒険」には、耳専門のモデルのガールフレンドの話が出てくるのだが、そこで描かれた魅力的な耳の描写に、私も主人公の”僕”同様、思わず息をのんだものだった。

撮影が終わり、1ヶ月ほど後に、現像した写真と、ネガが送られてきた。モノクロが多く、コントラストを高めに、陰影を強調して撮影、現像された写真たち。

何度写真を見ても私自身はいわゆる美人ではないし、スタイルがいいわけではない。それでも自分が気に入っているパーツは美しく撮れていたし、ディマシオが描いた女性の身体と同じように、これはアートなのだと思えた。

アートとして写真に切り取ってもらった部分を、普段は他人から見えない場所にひっそりと抱えているのは、それだけでも素敵な気分になったのだった。

そういえば、と、ふと撮影した日にあったモデルの女性のことを思い出した。アニエス・ベー、ボブカット、赤いリップの素敵な女性。

彼女の全てのパーツは美しく、そしてその集合体である身体全体のバランスもとても整って見えた。だからこそモデルという職業につき、日々その美しい身体を撮影されることで日々の糧を得られているのだ。

私の小さなごく一部が、ある一瞬、限られた角度で美しく撮れた、という事実だけで素敵な気分になれたのだから、彼女は全身に宝物を抱えているような気分になるのだろうか?

一瞬そんなことを考えたが、身体の美しさと自分の承認、他者からの承認、精神と肉体のバランス、いつか必ず生物の肉体は朽ちることを思えば、そんなことはない。

それでも、その瞬間瞬間に自分が好きな状態の身体、魂の入れ物を丁寧に自分なりに整えてやるのが、自分の人生自体を労わることになるのかなと感じたのだった。

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