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30年目の母の命日に想う

何を書いても私のことを救ってくれそうな、かろうじて低気圧が居座っている今日、これを記録しておこうと思う。うららかな陽気の春でも、寒さに凍える冬でもなく、今がいい。

特にもうすぐやってくる、うだるような暑さの夏の日には書けないと思う。晴天の夏の日は、あの葬儀の日の、皮膚をチリチリと焼くような白い日差しを、目眩がするようなあの一日を、より色濃く、ありありと思い出してしまうから。

私が20歳の時、母は自動車事故で亡くなった。脳挫傷による即死。

母はその時まだ45歳だった。

私は当時、それまでさほど大きな悩みを抱えることなく、自分の進路やささやかな交友関係、あるいは小さな体調の不調程度のこと程度しか悩みもなくそれまでの人生を歩んできた。

平々凡々の範疇であった人生と人生観が、この日を境にオセロ盤の殆どが白から黒へパタパタと変わるように一変してしまったと感じた。

死は日々至る所にある。人は必ず死ぬのだとどんなに頭でわかっていても、毎日同じ家に暮らす大好きな人が忽然といなくなる、その人がいて続くと思っていた未来が突然断ち切られるというのは、1mmも想像もしていなかった。

でも、それが現実に起こった日だった。

なぜ、その日早朝だったとはいえ、母に行ってきますの挨拶もせずに私は出かけてしまったのだろう。なぜ、その頃小さな喧嘩をしていたのだろう。なぜ大事なことを話しておかなかったんだろう。なぜ、一度も”お母さん、愛してるよ”と言わずにいたのだろう。

それは、後回しにできると思っていたからだった。同じような明日が間違いなく来ると思っていた。だから、しなかったのだ。

私は長い間、まだ心身の半分は母の死に囚われたまま生きているのだと感じていた。でも、母の30回目の命日を迎えるにあたって、そこから抜け出したいと思った。

愛する人に愛を伝えないまま別れるという、同じ後悔をしたくない一心だったし、私は私の家族を違う形で再生させたいと思い、長い間もがいてきたことを少し振り返って見たいと思ったのだ。

美しくて明るくて、聡明だった母。家族である私たちだけではなく、周囲の人々にとっても光り輝く太陽のような存在の自慢の母だった。

よく友人には"sannaちゃんのママ、美人だよね”と言われ、”そうかなあ?”と謙遜しながらも、内心嬉しくて仕方なかった。そして当時の家族の一般的な核家族らしく、我が家の家庭運営は全て母によって成り立っていた。

その時、父は海外に単身赴任しており、私が大学生で自宅から通学していた。弟はまだ高校生だった。丁度その時はこの地で家を初めて建てているタイミングで、母は英語の塾教師の仕事をしながら、様々な家に関する手続きや打ち合わせに奔走していた。

そして私はその頃、母と小さな喧嘩をしていた。私にとっては些細なことだったのだが、母にとってはもう少し重く、気がかりな事だったのだ。母は私ともめていることや、私への不満を父に手紙で送っていた事を後から知った。

母はそんな風に単身赴任する父と、こまめに文通をする可愛らしい女性だったのだ。両親は結婚20年以上を経ても子どもの目から見てもとても仲が良く、二人は母が亡くなるまでずっとダブルベッドで寝ていたくらいだった。

今でもよく覚えているのは、父の単身赴任先の国に、家族で小旅行に行った時のこと。ホテルのツインの部屋を2つ予約したと言う父に、私は"ママと一緒の部屋がいい"と言った時、母が明らかに少し戸惑った顔を見せたのだ。当時は全く無視をしていたけれど”私はパパと一緒の部屋がいいのに。。”と顔に書いてあった。

今思えば久しぶりの夫婦の逢瀬で寝室を共にしたかったのだろうに、私がそこまで両親に気を配れる子どもでもなく、結局、はしゃぐ私と、諦めたような気配の母とでツインルームで寝たのだった。

当時の父親は大抵がそうだったかもしれないけれど、私たちの父も子どもと熱心に関わるタイプではなかった。フレンドリーでもなく、威圧的でもなかった。

孤独に仕事ができる化学の研究者という職業を選んだ人らしく、人間関係構築力もあまりなく、基本的に他人にあまり興味のない人だったと思う。私たち姉弟も週末に遊んでもらった幼い子どもの頃はともかく、思春期以降は父のことを空気のような存在に感じていたような気がする。

父がトータル5年ほど単身赴任していた小学生から高校生までの期間も、寂しいと思ったことは全くなかったし、食卓が子ども向けのもの中心に(あるいは生協のレトルトなどの手抜き料理に)なっていたことがむしろ嬉しかった。

私は長女ということもあり、よく言えば素直で、母の言う事をよく聞く子どもだったと思う。母が私を他人に紹介する時に必ず言っていたのが、”この子は本当に素直ないい子なんですよ”と言うフレーズだ。

私はその言葉を何度何度も聞いて育ったので、大好きな母にとって、自分は素直でいい子でいるべきなんだと高校生までは思っていた。

母はいわゆる当時の"教育ママ"だった。母自身が地方では優秀な成績を納めて、都内の大学に進学した女性だったので、娘にもしっかりとした教育を受けさせ、最低限大学には進学させるのだ、と言うのが彼女のミッションだったように感じる。ただ、母の言う良い大学に入ったあと、どう生きるかについて母の口から何か聞いたことは全く記憶にない。

なので、私が家から通える地元の国立大学の推薦試験の結果、合否通知の封筒が合格した事を示す分厚いものだったのを見たとき、母は文字通りぴょんぴょん飛び上がって喜んでいた。彼女にとってはそれが大きな子育てのゴールだったのだろう。大人なのに子どものように無邪気に喜ぶ母を見て、親孝行したなあ、とまだ短いそれまでの人生で一番強く思ったものだった。

そんな風に思春期ですら(内心母に毒づいたにせよ)表立って反抗的な態度を取ることもなく、そこそこ母の希望通りの人生を歩んで来た娘が、20歳になって私の言う事を聞かない事があるなんて。。とその頃の母の心の中はさざなみだっていたのだと思う。

そしてそんな時期の、私が二十歳になった年の7月13日、母は帰らぬ人となった。

その年はたまたま金曜日だった。なぜ金曜日だったと覚えているかというと、後日友人に言われたからだ。"その日って13日の金曜日だったよね"と。弔問に来てくれた大学の友人の何気ない一言が、全く関係もないと思っていた13日の金曜日というキリスト教圏で忌まわしいとされている数字と曜日の組み合わせを、私たちとっては本当に不吉な日に変えてしまったのだった。

私はその日の早朝からバイトに都内に出かけていた。ある百貨店のお中元をひたすら包装するバイトだった。私の居住地から都内まで1時間半くらいかかったが、早く夏休みに入る大学生たちのために高速バスで都内まで行けた。

倉庫のような場所で7時間程度働き、またバスで戻ってくるというアルバイト。それ自体はとてつもなく退屈だったが、日給は地方のそれよりもよく、普段ファミレスで一緒にバイトしている仲の良い同級生たちとの往復のバスの道中は、さながら遠足のようで楽しかった。

その日の晩もいつものように高速バスが自宅付近に止まってから降り、自宅に近づいていくと、既に22:00頃だったにも関わらず自宅の周辺に数台の車が止まっていたのが見えた。急に心臓が苦しくなった。閑静な住宅街で、自分の家だけが、何か異様な雰囲気を纏っていたように感じた。

勘の鈍い私も、何か異常な事が起こっている、という強烈な、嫌な予感しかなかった。喉から何かがせぐりあげ、呼吸が苦しい。走って元の道を戻りたいような衝動に駆られたが、家に戻らないわけにはいかない。

私の家はここにしかないのだ。

既に目眩がしていたが、思い切ってドアを開けると狭い玄関一杯に大人の靴が並んでいる。そしてリビングへ入ると、10人くらいの母の友人たちと弟が、泣きはらした顔で一斉に私を振り返った。"どうしたの"と私が口を開く間も無く、母の一番の友人が

”お母さん、事故で亡くなったのよ。。”と枯れた声を絞り出した。

"お母さんが亡くなった"

過去形のその言葉は一瞬宙に浮き、私の頭の中でうまく繋がらなかったが、ともかくそれが事実なんだということは、周囲の悲痛な顔、顔、顔がそれを否応にも示していた。

私はそこから先のことは断片的にしか記憶にない。ただただ泣き崩れた。ドラマや映画ではよく見る光景のように。後から思えば、想像を超える衝撃的なことがあると、本当に人は脱力し、膝から崩れ落ちるものなのだ。

当時同居家族で成人しているのが私しかいなかったので、本人確認がまだ済んでいないため、母は家には帰ってこれず、救急病院の安置室にいる。すぐに本人確認に行って欲しい、と誰かから告げられて、私は抱きかかえられるようにして家を出た。

事故があったのは15:00頃。当時は携帯電話もなく、私が早朝からバイトに行っていて連絡がつかなかったために、母は7時間も一人で冷たい安置所にいたのだった。

なんてタイミングが悪かったのだろう。

さっき仲の良かった男友達に"じゃ、また明日ね!"と手を振ってバスを降りた15分前が、まるで遠い昔のような、彩度の低い色褪せた光景にふと感じた。あれは夢だったのだろうか?今の状況が夢であって欲しかったが、両方とも同じ線上に続く、紛れもない現実だった。

弟とタクシーに乗せられ、母がいると言う病院に行った。本当に前後の記憶が全くないのだが、安置所で母の顔を見て、間違いなく母です、と私は医師に伝えて、どうにかして母と私と弟は自宅に戻ってきたらしい。

幸いなことに、大きな事故で当時の車にエアバックがついていなかったのにも関わらず、美しい母の顔はほとんど傷ついていなかった。頭部の包帯とおでこの傷を除けば眠っているようだった。そして生命活動を止めてから数時間しか経っていないはずの母の肉体は、驚くほど生前よりも小さく、軽く見えた。

母はその日、仕事で自宅から60kmほど離れた所から帰宅する途中、自分が運転していた車で居眠りをして、対向車線にはみ出したそうだ。彼女は節約家だったので、高速道路が使えるルートだったのに、いつも使わなかった。

幸か不幸か、正面衝突した相手が2トントラックだったため、相手方には怪我もなく、物損だけで済んだ。申し訳ないことに、母が100%悪い事故だったのに、私たち遺族は相手方に多大な迷惑をかけたお詫びをした記憶が少なくとも私にはない。

遺体が自宅に戻ってきて、英語教師だった母がいつも熱心に勉強していた机がある和室に布団が引かれ、母の遺体が横たえられた。その作業を一体誰がやってくれたのだろうか。

ひとしきり皆々が自宅で何かざわざわとしていて、海外にいる父と、遠方にすむ母方の祖母に連絡を取ったりしているようだたけれど、遠くの世界のようにぼんやり感じていた気がする。

既に夜更けを過ぎていたので、またね、と挨拶をされて皆ポツポツとそれぞれの家に帰って行き、私と弟と、遺体になった母だけがその家に残った。

弟は程なくして2階の自分の部屋に戻ったようだったが、私は母のそばから離れ難かった。もう数日で母は燃やされてしまうのだ。この大好きな母の顔が見れなくなると思うと、ずっと見ていたかった。私は母が世界で一番好きだったのだ。

母の枕元で膝を抱えて、一晩中眠っているような顔を見つめていた。既に泣きつかれていたけれど、いくらでも涙が溢れて枯れることがなかった。悲しみという感情によって、なぜこんなに目から沢山の水分が出てくるのだろう。ふと別の私が、私と母を上から見下ろし、ある物語を俯瞰しているような気持ちになった。

現実でなければいいのに。

そう数え切れないほど願った長い長い夜だった。

でもいつものように朝がやってきて、また母の近しい知人、親戚が集まってきた。なんの予兆もなかった愛する人の死に悲しみ、驚く人たちを迎えるというのは本当に辛い。

訃報を受けた父も急遽帰国してリビングに顔を出すなり、泣き腫らした顔で

「お前がお母さんを殺したんだ!」

私にそう叫んだ。"ママが居眠り運転をしたのは、お前が心労をかけたせいだ!"と錯乱した様子で繰り返し叫んでいた。

みんなが集まっているその場で、私は父によって殺人者と言うレッテルを貼られたのだった。周囲にいた母の友人たちが私を庇って父に何か言ってくれたような気がするがよく覚えていない。

普段私たちをとても可愛がってくれた祖母も、私と弟に向かって

”お前たちが何か心配かけたんじゃないのかね!!”と絶叫していた。

祖母は戦争で夫を亡くし、一人娘である母を宝として生きてきた。娘を大学進学時に送りだした後は娘家族を支援しながら1人暮らしを楽しんでいたが、孫よりも娘が可愛い、というのは明らかに見て取れた。

だから、大切な1人娘に先立たれたショックは如何程だったろうと思う。

誰からも愛されていた母が、突如奪われた悲しみと怒りが私たちに容赦なくぶつけられたのだった。私たちはそれ以上に悲しくなかったとでも?最愛の母を亡くした子ども2人にかける言葉としてはこれ以上に残酷なものはなかったと思う。

もちろん、母の友人知人たちはそんなことないよ、と泣きながら私たちを抱き、さすってくれた。けれども内心は原因探しをしていただろうと思う。それは自然なことだ。私も同じ気持ちだったから。

天災のように多くの人に降りかかる災厄ではなく、ある個人だけが予想外の悲劇に襲われた時、人は誰でも、誰かの、何かのせいにしたくなるものなのだ。憎む相手がいる方が気が楽なのかもしれない。

太陽のようだった母が若くして死んだ理由の、犯人探しを誰もが心の中でしていたのだと思う。そうしなければ、その理不尽な悲しみに耐えられなかったのだと思う。

その嵐のような深い悲しみが、広くはないリビングに溢れていた。

愛する人の死は辛い。そしてその死が突然で、前触れがないものほど、その死は残された人の人生に重く濃く影を残す。

そしてその死は、死者と生者の意思に関わらず、強烈な引力を持つのだ。

こうして自分の罪かもしれない事を書き記しておくのは辛いことだ。しかし、私が半世紀生き延びてきたこのタイミングで、どこかにこれを記しておきたいと思った。ここで書いておく事で数えきれないほど、母に詫び、そして帰ってきてほしいと願った過去に束縛されることを、ゆっくりと終わりにしたいと願ったのだった。

後日、母が乗っていた大破したマークⅡから、運転しながら聞いていただろう井上陽水やアリスのカセットテープを見つけた時。

助手席にあった鞄の中に、私が母の日にプレゼントしたハンカチを見た時。

母の遺体を寝かせていた、脳漿がついた布団を父と空き地で燃やした時。

私たちが自立したら、またアメリカに留学したいと夢を語っていた母の笑顔を思い出す時。

当日の朝、母が思い直して椅子にかけて置いたままのストッキングが、母の部屋のベッドに彼女の抜け殻のように置いてあったのを見た時。

幾度も許しを請い、母を想い、そしてこの世にどこか執着が無くなってしまった自分がいた。

母の事故の原因と父からの一言とその後の父との関係性から、私は母を亡くしてから、子どもを産むまでの9年間、希死念慮を抱えていた。

積極的に死ぬために行動を起こしたわけではないのだが、生きることがひどく面倒になってしまう瞬間があったのだ。

私は学生時代からバイクに乗っていて、今もバイクが大好きで仕方ないのだけれど、当時はバイクで事故に遭うということに対する恐怖がかなり薄かった。内心、別に事故ってもいい、と思っていた。

法定をはるかに超えた速度で、時には無謀な走り方をしていたのだけれど、こんなに楽しくバイクに乗っている最中なら死んでもいいな、とどこかで夢のように思っていた。

実際、2回ほど大きな怪我をする事故をしている。一度は死んでもおかしくなかった事故で、左手首の開放骨折と手足の裂傷で済んだが、ヘルメットにはヒビが入っていた。その時は本当に無茶な運転をしていて、たまたま運よく助かったというだけだ。

その時の傷は今でもよく見える部分に残っている。それを見ると当時の希死念慮のことをいやでも思い出すし、誰かを巻き添えにすることがなく本当に良かったと心底思う。今は自分のことしか考えていない浅慮さを恥じる。

希死念慮を止めるには、私が母を死因を作ったわけではない、と知るしか方法がないと思っていた。しかし、母はその答えを抱えたままこの世から去ってしまった。私がその答えを聞くことは一生叶わない。ただ、もしも聞いてしまったら、それこそ私は一生立ち直れないことになるかもしれない。

その真実が闇の中であることで、絶望的な引導を渡されることもなく、あるいは希望で目の前が晴れやかになることも永遠にないのだ。

その不確実な靄の中で、一生涯、自分の存在が正しいのか罪なのか、答えの見つからない道の中で、生きていていい理由を模索していく人生を、その日から抱えて生きてきた。

そして幸いなことに、子どもを授かったことは、私の死へ駆り立てる昏い気持ちへの強力な抑止力になった。

未来へと続く、まだ頼りない生命を預かっている、というのはこんなにも力強いパワーが湧いてくるのだと思った。私自身、両親もいない中で、しかも途中で離婚もしたので子育てには苦労も多い。それでも、過去の自分が他者のために死なずに来れたことは子どもたちのお陰だった。

文字通り死ぬほど好きだったバイクだったが、妊娠してから21年間封印した。正確にいうと途中で2度ほど短時間乗ったが、子どもたちが成長して彼らに万が一のリスクに備えた、いくばくかのお金を残せるようになってからでないと乗れない、と思っていた。

息子はことあるごとに”ああ、バイク乗りたいなあ、、”と呟いていたので、私のセリフを聞き飽きたのか、”乗ればいいじゃん”と軽く言っていたが、娘は”ママが怪我するのが怖いからダメ”とずっと話していた。

私は大黒柱だし、娘の気持ちを押し切ってまでバイクに乗ろうとは思わなかった。でももう息子も20歳になり、娘も15歳になった。そして今年になって娘も”安全運転するならいいんじゃない?”と言ってくれた。彼らの成長と私がやりたいことを尊重してくれる気持ちが、嬉しかった。

そして母の死から30年目の今月から、バイクを乗ることを自分に許可してバイクを探している。もちろんもう、希死念慮はないから、考えられる限り万全を期して乗る。

身体は年齢を重ねたし、不慮の何かがないとは言えないだろう。それでも乗るのかと言われても、私は乗ると思う。少し乗れたら、この執着のような思いも成仏して今度こそ本当にバイクを降りられるかもしれないし、そうでないかもしれない。

私が後悔をしないように、必ずしていることの一つに、どんなに喧嘩しても出かける子どもたちには”いってらっしゃい”と声をかけることだ。

返事がなくても構わない。”行ってらっしゃい”と言っておけば、”ただいま!”の声も必ず聞けると思っている。

だから、自分も必ず”行ってきます”言う。

いずれ、晴れてツーリングに出かけられる日にも

”行ってきます”と言うだろう。

これは、必ず ”ただいま!”と子どもたちに言うための、私のための祈りの言葉なのだ。


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