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障害者には特別な才能がある、という呪い。

視覚障害者が聴覚を活かしてピアニストだとか、数字をたくさん記憶できる発達障害者だとか、芸術的な絵を描く知的障害者だとか。特異な才能をもつ障害者の話題は、事欠かない。

アップルを創業したスティーブ・ジョブズにはADHDの特性があったと言われているし、アインシュタインはアスペルガー症候群、辻井伸行さんは盲目のピアニスト……実際に、才能のある障害者はたくさんいる。

聴覚障害があるというと「耳が聞こえない代わりに普通の人よりも視る才能があるんでしょう?」と返されることがある。

しかしまぁ残念なことに、わたしの視力は裸眼で0.03だし、軽い斜視と乱視もある。コンタクトと補聴器を外したら、文字通り見えないし聞こえない状態だ。

じゃあ、視る以外に才能があるのかと言われても、正直言葉に詰まる。どちらかといえば、ずっと一芸をもっていないことにコンプレックスを感じていた側の人間なので。

だから、某チャリティー番組などで特異な才能のある障害者を見るたびに、わたしはきこえにくい上に絵も描けないし、写真の構図も勉強してやっとそれっぽくなる程度だよな……と落ち込むなどする。

障害者が何かに挑戦するときには、成功しないといけない。だって、障がい者が失敗する姿なんて、救いようがないじゃない。

とまで思ってしまうあれは、一種の呪いのような。

じゃあ、健常者はどうだろうか。公立小学校の30人学級。足の速い人や遅い人、計算が得意な子や苦手な子、ピアノが弾ける子や弾けない子……いろんな子どもがいるだろう。

障害者だってそれと同じように、走るのが速い子も遅い子もいるし、絵が上手い子もいれば苦手な子もいるし、文系科目が得意な子もいれば理系科目が得意な子もいる。

同じ聴覚障害者と一緒にいても、手話でおしゃべりをしている途中に部屋に入ってきた人に気づく人もいれば、歩きながら手話でのおしゃべりに夢中になって電柱にぶつかった友人もいる。(あれは、とても痛そうだったな。)

ただひとつ言えるのは、音のない世界に生きる人たちは努力家が多いということ。

自分達の言語である手話以外に日本語を習得して仕事をこなしたり、音の世界の人たちの常識を学んでそれに倣って生活したり……何気ない日常の音の世界の人たちにとって当たり前のこと一つひとつを当たり前に過ごすために、相応の努力をしてきている。

努力自慢をするわけじゃないけれど、わたしも小学生時代は日本語で伝わる文章が書けるように毎日泣きながら日記を書いたし、自分のきこえを周りに理解してもらうための術を考えたり、補聴器での聞き取りの練習をしたり……そんなことを積み重ねてきた。

そういう努力を重ねて、音の世界の住人たちの世界線で社会生活を営んでいる。それだけで充分褒められて良いわけで、特別な才能まで求められたら正直参っちゃう。

健常の人たちに
・優しい人
・足の速い人
・勉強ができる人
がいるのと同じように、障害者にも
・優しい人
・足の速い人
・勉強ができる人
がいる。

健常の人たちになかに特殊な才能をもつ人がいるように、障害者のなかにも特殊な才能をもつ人もいる。

ただそれだけ。

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