そういえば、
そういえば、先日声優・歌手として活躍中の小林愛香さんのライブに参加してきた。
私自身、これ彼女のライブ初参加となる。個人的に、並々ならぬ思いがあったので、この度文章でまとめてみようと思った次第だ。
先に言っておくと、ライブのレポ記事と思って読まないで欲しい。それどころか、全体のほとんどがライブとは関係のない文章だ。大体が自分語りである。終わっている。
一度サラッと通して書いてみて、後からこの前置きを書いているのだが、はっきり言って内容がキモすぎたし、小林愛香さんにとって百害あって一利なしという感じだったので、ぱっと見なんの記事か分からないようにした。noteに公開範囲を絞れる機能があれば、友人間にのみ絞るだろう。問題がありそうなら一瞬で非公開にするので、教えて欲しい。なので、先に謝っておこうと思う。本当にごめんなさい。
それでも書いておきたいなと思ったのは、友人に”アツい漢”が一人いるからだ。彼の小林愛香さんへの気持ちに、すっかり充てられてしまった。私も何か書かなければ、そう思わされた。なので、本当は最初、自分も、その思いに、少しでも助力できれば、と記事を書き始めたはずだった。しかし、出来上がったものは…ご覧のとおりだ。もう一度、その友人に対しても謝罪させて欲しい。本当にごめんなさい。
出会い
まず、恥ずかしながら自分語りから失礼させていただきたい。
興味のない方が大半だと思うので、目次から次の項目に飛んでいただいて構わない。
自分が小林愛香さんと出会ったのは、最近でも、少し前でもなく、彼女が「ラブライブ!サンシャイン‼︎」内ユニットであるAqoursのキャストとして発表された時である。実に9年前であり、長い時が経ったな、としみじみするばかりだ。
当時の彼女に対する感情は、「キャストとして紹介され、目視で確認はしたものの、さして興味は湧かなかった」というわけではなく、むしろ興味津々だった。
端的に言えば、ルックスが好みすぎた。顔を始めとした全体的な見た目の雰囲気が好きすぎた。
言葉を選ばずにいうと、「性癖の集合体」だった。
それぞれのパーツがそれぞれ、私の癖にブッ刺さっているのにも関わらず、それぞれのパーツの組み合わせによる相乗効果により、その癖力は、並のスカウターであれば漏れなく爆散してしまう程に膨れ上がっていた。
なので、彼女への興味関心は9年前からすでに存在していた。というか、周囲には「小林愛香さんの顔が好き」というセリフを、会うたびに言っていた気がするし、もはや名刺がわりに使用していたと言っても過言ではない。 ここでいう「顔が好き」とは「顔を始めとした全体的な雰囲気が好き」を省略したものであり、「顔だけが好き」という限定対象ではない点には注意したい。
もはや好きすぎて、少し前から、「小林愛香さんは人智を超えた存在なのではないか」と疑うようになった。なぜなら、ヒト種を相手にしているには、私の精神が少々狂いすぎているからだ。いくら好きと言っても、自撮りを一瞥しただけで、猿叫をあげて床に伏すようなことにはならないだろう。これは明らかに、人智を超えた神性存在に対する絶対的忠誠・信仰の類である、と理解するしかなかった。
その疑いを補強するかのように、近年私はある違和感に襲われていた。それは「小林愛香さんは可愛い」と発言するたびに感じたものだった。なんというか、明らかに「可愛い」という単語が、言葉負けしているように感じた。「可愛い」という枠組みで推し量るには、彼女はあまりにも…
そう感じた段階で、私に圧倒的な”気付き”が舞い降りてきた。
それは、神性存在である小林愛香さんを表現する言葉が、ヒト種の言語野には存在していなかったということなのだ。なんらかの事情があって、ヒト種の姿で我々の前に君臨されている彼女を、それでも尚、讃称する言葉を我々は持ち合わせていなかったのだ。その状況を見兼ねた神が、”ヒト種が彼女を讃称する言葉”として「可愛い」という形容表現を生み出した。まるで平安の時代から同単語が存在しているような記録や記憶が残っているのは、まったく神の御業であろう。そう考えると辻褄が合うのだ。 「可愛い」より「小林愛香」が先にある。その事実に思い当たり、我々ヒト種の限界を感じると共に、彼女への圧倒的な崇拝を抱き、拝み祈ることで、救われた心地がした。
斯くして、私は、小林愛香さんは神性存在であり、彼女を讃美し続ける限り、ヒト種の平穏を保たれるのだ、という説を提唱するに至った。
つまり、何が言いたいかというと、「小林愛香さんは可愛い」ということである。
話を戻そう。
要するに、私は小林愛香さんと9年前に出会っており、好意的な気持ちも少なからずあった、ということである。
しかし、私は捻くれた人間であるため、「顔が好き」という理由だけでは、狂信の如き傾倒をすることはできなかった。つまり、「追っかけ」という状態にはならない。それ以外、主に内面の部分で引っかかるところがないと、その段階まではいかない。
なので、「9年目にして初めてのライブ参加となった」というわけでもない。実は事はそこまで単純でもない。
なぜなら、彼女に対してもその「引っ掛かり」を感じていたからだ。
過程は省略するが、色々と調べていた結果、彼女がAqoursとして活動を開始する前に、歌手としてデビューしていて、フォロワーが50人になったことを喜んでいるような時代があったことが分かった。
つまり、ど素人からオーディションで合格し、キャストとしてデビューしたわけではなく、昔から歌手として活動を行っていたということだ。しっかりとした下積み時代がある。そしてその時代は、調べれば調べるほど泥臭く、日の当たらない裏路地をひたすらに進んでいるような時代だった。
それでも前向きに頑張る彼女の姿が私の心に酷く「引っかかった」。
時にポエミーになったり、負の感情を吐露することもあったり、そういった等身大な描写も私の感情を揺さぶった。さらに、彼女はあろうことか、その時代のブログを現在まで残しており、今使っているフォロワー36.9万人のアカウントは、その時代のアカウントの延長だ。アカウントを変えていないのだ。「ラブライブ!サンシャイン‼︎」のキャストに選ばれた新人声優として、心機一転、「新しい存在として生きていく」というわけではなく、昔も今もずっと「自分」、ずっと「小林愛香」なのだ。この姿勢は、声優業界ではあまりにも珍しく、私の目にはとてもカッコよく映った。
その頃にはすでに彼女のポテンシャルに魅せられていたわけだが、調べていくうちに更なる追い討ちに遭う。
それは、彼女がTVアニメ「フリージング」のEDテーマを担当していたことだ。
この「フリージング」、決してメジャーなアニメではなかったと思うが、私はこのアニメをよく知っていた。存在を知っているというレベルではなく、ちゃんと内容まで知っていた。
なぜなら、学生の頃よく屯していた友人の家に、原作漫画が全巻(当時刊行されていた分)置いてあったからだ。そのため、私を初めとしたその友人グループは全員が全員、「フリージング」を知っている。なんなら思い入れがあるくらいだ。
その流れでアニメも見ている。ラジオも全てではなかったかもしれないが、聴いていた記憶がある。確実に当時の自分は「君を守りたい」を聴いていた。
ラジオも、もしかしたらゲスト回を聴いていたかもしれない。ただ当時の自分は、流石にそこに意識を持っていってはいなかった。だが「君を守りたい」という曲は、あまりにも聞き覚えがあって、驚いた。そこからぐんぐん思い入れは加速し、いつしか、この人が「世界に羽ばたく瞬間」を観ないと死ねない。そう思うようになった。そして、その「世界に羽ばたく瞬間」という基準を、「歌手として再デビューする姿を見る」と設定した。そして、エクストラミッションとして、「『君を守りたい』を”今”の小林愛香さんが披露する瞬間に立ち会う」を設定した。
私は誰かのオタクになる時、しばしばこう言った目標を設定する。前項でも述べたが、私は傾倒に、理由を欲するタイプの面倒くさいオタク。一番厄介なタイプだ。こういうタイプはオタクに”理屈めいた理由づけ”を行なっているため、ハマるまでは時間がかかるが、ハマると、正直目も当てられないほど気持ちの悪いオタクへと変容を遂げる。オタクなど、「なんとなく好きだから」で始まり、「なんとなく興味がなくなった」で離れていけば良いのだが、それができない。ならば、その終わりにも理屈めいた理由づけを行わなければ、終わるべき時に終われない。最終的に、気持ちよりも”理屈めいた理由づけ”による義務感の奴隷と化してしまう気がしている。そのため、上記のような目標設定を行なって、去り際を見極めている。
それらの目標が達成されると、満たされ、その人に対しての「オタク」という状態は終了する。とはいえ、たまに例外は発生するのだが。
それを踏まえて、私は小林さんのオタクではない。というか、ライブを開催するという状態から考えて、彼女が歌手として再デビューしたことは、今更改めて説明することもないだろう。それどころか、エクストラミッションも早々に達成されている。もう私の心はすっかり満たされてしまい、今ではオタクではなく、”彼女の御姿をひたすらに讃える下賎なヒト猿”へと成り果てている。「好きじゃない」という意味ではない。それどころかかなり好きだ。どう考えてもスマホに保存されている声優の写真で一番多い。見かけたら絶対に保存している。好きだが、熱狂的ファン、つまりオタクという枠組みからは外れてしまったという自認があるだけだ。
ライブ参加に至った理由
ここまで自分語りが続いているわけだが、いよいよ本題のライブについてだ。前項ですでに触れてしまったが、9年経った今初めてライブに参加する理由は、”オタクでなくなってしまった”という部分が強い。が、それだけではなく、正直”避けていた”部分もある。現実的なところで言うと、私は「単推し」にカテゴライズされるタイプのオタクではないため、経済的に余裕がなく、避けざるを得なかった。感情的に言うと、自撮りがちょっと視界に入っただけで横転してるような人間が、彼女のライブに参加すると、その神性に耐えられず、泡を吹いて失神する可能性すらあるため、方々への迷惑を考えると、それは避けたいという感じだった。
ならば、なぜこのたびライブに参加することになったかといえば、それは「Aqoursがfinaleするから」と言うことに他ならない。
その発表がされた2024年6月30日の生放送を、私は3人のオタクと共に見守っていた。Aqoursが「終わる」だ「終わらない」だのでSNSが荒れており、混沌としていた時期であったが、我々4人は「終わらない」と言う意見で一致していた。当時は4人中私を含めた3人が沼津在住だった。沼津の動きは活発で、とても終わる感じには見えなかったことと、キャストのポジティブめいた発言や、我々の「終わってほしくない」と言う希望も合わさって、確証のない余計な不安を持ち込むよりも、そういったスタンスで居た方が幸せだろうというところに落ち着いた。そのため、正直普通にパーティが行われる心持ちだった。クソデカポジティブ発表があるのだろう、と。それならばそれに相応しい舞台を用意しなければ、と。Lサイズのピザ2枚と大量の酒、加えてGrandmaさんお手製「永9hoursプリン」も人数分用意していた。
結果は皆さんご存知の通りと言う感じなのだが、Aqoursはfinaleすることになった。その瞬間から、生放送終了後もしばらく、我々は茫然自失としていた。思いを巡らせ、涙を堪えきれない瞬間もあった。正直今も書いていてしんどくなってきた。
そして、しばらく経って誰かが、「何か楽しいことしたくないすか」みたいな発言をした。他3人も思いは同じだった。とにかく楽しく居たかった。何か楽しいことはないか、と模索する過程で、一人が「小林愛香さんのライブがあります」、そう発言した。それだけで言葉は十分だった。いつの間にか愛知公演の4連番を申し込んでいた。
というような流れで、この度、9年目にして初のライブ参加になったのだ。
当時は勢いだけだったが、時が近づくにつれ、緊張も強くなっていた。それだけではなく、私の生活が色々と急変し、「もしかしてそれどころではないのか?」と思ったりもした。
でもきっとこの機会を逃すと、この先も参加することはないかもしれない、と言う強烈な予感があった。そして原初の「楽しいことしたくないすか」的マインドの再燃もあり、無事に会場へ辿り着くことができた。
実は会場のElectric Lady Landには、故あって何度も来たことがある。なので、会場にたどり着くまでに迷ったりすることはなかった。
大須観音駅のロッカーに荷物を預け、上に上がるとコンビニがあり、隣には「宮本むなし」が…ない!など、新鮮な驚きもありつつ、会場前の人だかりを見て緊張を増幅させていた。しかも発券者が持ってきたチケットはかなりの良番だった。それがより緊張を加速させていた。緊張しすぎて、携帯している緊張緩和の頓服剤を飲んだくらいだ。依存性があるので過度な服用は厳禁と言われているが、正常を保つには状況が悪すぎた。友人たちには「多分純粋に楽しむ余裕とか無いと思うので、固まってたらすいません」と前置きをしてしまったくらいだ。
ライブ雑感
とうとう会場時間となり、早々に番号を呼ばれ、会場内に。番号が良いこともあり、入り口左手にあるバーカウンターと、右手あるお馴染みのアルコール自動販売機には寄らず、そのままフロアに入った。
どう考えてもステージが近すぎる。頓服剤では抑えられない緊張が私を襲った。正直マジに緊張していたため、待機時間に友人たちと何を話していたか、全く覚えていない。とにかく震えていた気がする。まるでオタク1年目のような心持ちだが、こういうオタクになってからは10年ほど経っている。小林愛香さんを近距離で見るのも初めてではない。「『未来の僕らは知ってるよ』のスタンプ会」とか「T-Spook」とか、Aqoursのライブでそれなりに近い席だったこともある。だが、ワンマンライブを近距離で浴びるのはまたわけがちがう。経験則で、大体1時間半〜2時間ほど、小林愛香さんとバンドメンバーだけがステージでパフォーマンスし続ける。そして、それを私はかなり近い距離で観続ける。どれだけ低く見積もっても即昇天だろう。ここに来て、曖昧な恐怖が実感に変わる。そんな私の感情に世界は歩幅を合わせてくれたりしない。容赦無くライブはスタートした。
一応ここからライブの雑感に入るのだが、1曲1曲のことをそこまで記憶できていないため、ここからは箇条書きのような形でお送りする。おそらく記憶に残っていないところは”感情の戦い”をしていたのだろうと思う。なぜならライブ中、直視できなくて目を逸らしてしまったり、マジで”膝から崩れ落ちる”瞬間があったりしたからだ。生きて帰ってきただけで勲章者だろう。
まず、バンドメンバーがステージ上に、少しして小林愛香さんが現れる。瞬間、意識が飛びかけた。すかさず、外でかけていたサングラスをかけ、直視を防ぐ。危なかった。少しでも遅れていたら失神していたかもしれない。しかし、サングラスも、そこまで色が濃いわけでも、遮光が強いわけでもなく、直視に薄いレイヤーを一枚重ねたにすぎず、心臓の鼓動は治ってくれなかった。
そのため、本当に申し訳ないのだが、「Live Goes on!」の記憶がほとんどない。こういう感情との戦いに意識が持っていかれることがあり、ままならない。Aqours 3rd Liveの「Beginner's Sailing」もそうだった。
次の「グミチュウ」は、個人的にも好きな曲だったので、引き続きサングラスをすることでなんとか感情を抑えながら、純粋に楽しもうとした。思えば、この曲を聴いた当時はまだグミというものの良さがよく分かっておらず、特に人生の中でグミに触れる機会もなかったた。ある時、同曲の話題になり、「全然グミのことを知らない」と友人に伝えると、「ハリボーも?」と返ってきた。一旦「知らない」と答えたが、「商品名を聞いただけではピンと来なかっただけだろう」と、友人にハリボーの商品画像を提示された時、本当に一片の見覚えもなかった。それに対して友人は大変驚いていた。その友人からハリボーをはじめとしたグミの布教により、今ではそれなりにグミが好きになったし、小林愛香さんのインスタストーリーに時折現れるグミたちのことも分かるようになった。あまり関係ない話だが、「グミチュウ」、引いては小林愛香さんのグミ布教活動が無ければ改めて人生でグミについて考えることなどなかったかと思うと、感慨深い。
「Heartache soldier」、これが流れてきた時点で、会場前で友人らに言った「純粋に楽しむ余裕はない」という戯言が彼方へ吹っ飛んでいきました。もうね、全然はしゃいじゃう。血液の巡り、そして細胞の躍動を感じる。1発目からカマしてくるタイプのライブは、個人的にも好みだ。
「アミュレットメモリー」、実はここまで小林愛香さんを直視できなくてサングラスを掛けっぱなしだったのだが、この曲でようやく外すことができた。「直に見ないときっと後悔する」とようやく思い至ったのだ。それほどまでに、この曲の彼女の歌唱に魅せられたという話でもある。
「As One」、そもそもの曲の雰囲気がしっとりしているのに加えて、小林愛香さんの柔らかな歌い方が相まって、暖かな光に包まれているかのような安心感を覚えた。そして曲の終わりで気付いたのだが、自然と掌が礼拝の姿勢を取っていた。自意識を超えた"崇拝"に、身が震えた。
「Can Can One One」、アルバムを聴いた時から、イントロの音が良すぎだし、ノリやすく、ライブで聴いたら楽しそうだなと思っていた。田代氏のワザマエを感じる。あと小林愛香さんがちょっと可愛すぎました。
「YARUSHIKANAI」、アルバムを通して聴いて、私の心に刺さったのは実はこの曲だった。往年の J-RAPを感じさせるトラックが、私好みだった。というかモロに「オモロ・ラップ」だった。、女性声優のアルバムを聴いていてこのような曲に出会えるとは思っていなかったので、夏には「サマージャム’95」を聴きがちな私としては、非常に嬉しかった。この曲で身体を揺らしたいという思いが膨れ上がっていたので、聴けて嬉しかった。フィーチャリングの佐伯ユウスケ氏は、「佐伯youthK」名義でカマシし続けているのはもちろんのこと、私のようなアニメ遊戯王のオタクには馴染み深いだろう。SEVENSはちゃんと面白いのでオススメです。なので、欲を言えば佐伯ユウスケ氏にも登場していただきたかったのは本音ではある。だが、それは望みすぎだろう、と自分を納得させていたが、東京公演では出演されたらしく、唇を噛み締めた。
「KANPAI」、普通にポンポンを出してきたのかなと思ったらビールで笑ちゃった。”社会”でもこんなにはしないぞ、と言うくらい、無限に乾杯した。だが、沼津で知り合ったオタクが、飲み会で新しい酒が来るたびに乾杯をしていて、「乾杯は幸せの言葉。何度やったっていい」と幸せそうに言っていたので、これもそういうことなんだろうと思った。
「Breakthroughだ!」、もう時間が経っており、曖昧で申し訳ないのだが、小林愛香さんがキーボードを演奏する一幕があったと記憶している。
実はここまで、ライブ中の彼女の様子には、少し”緊張”のようなものが見てとれた。それが、このキーボード演奏を意識してのことだったのか、と得心がいった。
事実、キーボードを演奏する際も彼女はえらく緊張していたように思う。
だが、繰り出される演奏は、素人耳にはとても巧みに聞こえた。
当たり前だが、彼女はボーカルであり、キーボード奏者ではない。ここでの演奏が稚拙であろうと、我々観客は非難などしないだろう。それこそ、どこぞの川崎ガールよろしく、適当に演奏し、「キーボード弾けません!」と言い放ったって良いくらいだ。
しかし、彼女はライブパフォーマンス一つにも妥協はしない、ということなのだろう、だからこそ緊張をするのだろうし。と、ライブ中は思っていたのだが、後から「この曲は、音源の時点で小林愛香さんがキーボードを演奏している」と聞いて、驚きのあまり横転してしまった。多才すぎます。
「BUMMER,BUMMER」、これもアルバムを聴いた時に注目していた1曲だった。特別ラテン系の曲が好みというわけではないが、具体的に言うと、「分かるでしょ」あたりに、私の好きなアーティストの一人である"eill"みを感じて、気に入ったと言う感じだ。なので、これもライブで聴けて嬉しかった。
「だれも知らないんだ」、これまた個人的に注目していた曲だ。またか、思われるかもしれないが、単純に「良い曲が多すぎる」ということなのだ。詩的な歌詞と世界の広がりを感じさせるトラック、詞にピッタリと感情を乗せられる小林愛香さんのボーカルが合わさって、壮大で幻想的な曲に仕上がっている印象だ。アルバムを通して聴いていて、最後のこの曲が待っていて思わず柏手を鳴らしてしまったことも記憶に新しい。敢えて敬称を略させていただくが、”小林愛香の「君が知らない物語」”という感じがする。メタ的な視点をライブに持ち込むのはあまりよろしくないかもしれないが、この曲が用いられるのは、ライブの最終盤、もっと言えばアンコール前あたりに配置されるのでは無いかと考えていた。この曲の終わりで、舞台袖にはけていく、いう風景を勝手に思い描いていた。
「Lorem Ipsum」、だから、この曲の登場には、「え!?まだはしゃいじゃっても良いんですか!?」と心底驚いた。まさかこの曲が聴けるとは思っていなかった。前段でも少し触れたが、やはり私は、この再デビューあたりが一番小林あいかさんに対する気持ちが強かったと思う。1st single『NO LIFE CODE』に収録された楽曲など、もはや私にとっては聖歌に近い感覚だ。静かに祈り崇めたい。しかしながら、この曲は不動の態度を許してはくれない。身体が跳ねているのではない、細胞ひとつひとつが躍動しているのだ、と言わんばかりのはしゃぎっぷりで、痛めていた右足がこの曲で激悪化した。
「Lonely Flight」、2nd full alubm『Illumination Collection』のリード曲であり、初見で「特別な楽曲」なのだろうという予感があった。小林愛香さんへの思いが深ければ深いほど刺さりそうな詞とメロディをしていると感じた。だからと言って、言い方は良く無いかもしれないが、私のような”浅い”人間は何も受け取れないかと言われると、そんなことはない。そのまっすぐなメッセージは、確かに私の心を打った。あと、やはり小林愛香さんの寄り添うような歌い方は、ずるい。
「Orginal My Life」、この曲は、ダンス動画だったか何かをアルバムを聴く前に、tiktokだったかyoutube shortsだったかで観たことがあったので、最近の曲の中では結構馴染みが深かった。コールも覚えていたので、全力で盛り上がることができた。
ここで、小林愛香さんが舞台袖に掃けて行って、アンコールという流れになった。
アンコールの内容は、現場によって変わるものだが、この現場ではそれが、「あーいか!あーいか!」だった。誠に申し訳ないのだが、彼女の名前を叫ぶことは、私にはできなかった。
それは、「アンコールが恥ずかしい」みたいなちゃちな気持ちではない。他の現場では躊躇わずコールしている。それは、「いくら予定調和といえども、アンコールを行わない者に、アンコール後のライブを楽しむ資格はない」という過激思想を持っているからだ。
ではなぜこの現場ではコールできなかったのか。
それは、唯一神の名をみだりに唱えてはいけないからだ。文字に起こす時も、本来であれば「KBYS」と表記するべきなのかもしれない。そういうわけで、大手を振ってアンコールはできなかったが、小さく「アンコール、アンコール」と口ずさみつつ手拍子は行っていた。
「Please! Please! Please!」、アンコール明けにあんなイントロを聴かされたら、盛り上がらないわけには行かない。「一応アンコールはした」と自分を納得させて感情に身を任せてはしゃいだ。個人的にはこの曲の「だから簡単なことだけ示し合わせて旅を続けよう!」という歌詞の言い回しは面白くて、以前から好きだった。なので、生で聴けて素直に嬉しかった。
「Can you sing along?」、この曲は、それこそ動画で幾度となく観てきた。「最高すぎるよ全部最高」という激バイブスワードをライブで聴け、共に叫べることに至上の喜びを感じた。実はライブに行かないまでも、結構憧れていた。まさしくライブのトリにふさわしい、この時を待っていた。今日くらいは言っていいでしょ。
ここで、曲目は終わるのだが、印象に残っているMCもあったので紹介したい。それは、乗ったタクシーの運転手が、「名古屋には何も無いよ」と自虐的だったというところから始まる。
それを受けて、小林愛香さんは「そんなことないですよ、鯱鉾とかあるじゃないですか」とフォローするのだが、「いやいや」と聞く耳を持たない。
それどころか、”鯱鉾”という単語でスイッチが入ったのか、名古屋の建造物に対して、「あれもこれも色がダメだよ。金色にした方がかっこいいよ」と独特な自論を展開してきた、という話だ。
明らかに激ヤバ人物なのだが、名古屋の全てを黄金に染め上げようとする姿勢から、私は密かにその人のことを「エルドラドおじいちゃん」と呼んでいる。
と、ライブの感想をバーっと書いてきたが、正直ここまで書く気はなかった。
覚えている場面だけさらっと書いて、それで終わりの予定だったが、結局、柄にもなく全体に触れてしまった。
ライブのレポ記事なんて普段は書かないし、苦手なのだ。
なぜなら、ライブはその場のバイブスに身を任せて盛り上がり、終わった後は「全て忘れている」くらいがちょうどいいと思っていて、何も覚えている気がないからだ。
なので、全曲何か書くことがあっただけでも個人的には凄いことである。
しかし、それは決して、”記憶を失うほど楽しいライブではなかった”ということを意味しない。
なぜなら、今回もちゃんと、覚えていなかったからだ。だが、記事を書いていくうちに、記憶が思い起こされていったのだ。多分、今までのどのライブもそうだったのだろう。
「忘れている方がちょうどいい」なんて言いながら、楽しかった思い出を忘れるのは悲しいから、しっかりと記憶に刻み込んでいる、ということだろうか。引き出そうとすると、まるでその時に戻ったかのように鮮明に思い出される。だから、ライブのレポ記事は積極的に書いていってもいいのかもしれない。ただやはり、表現力・語彙力・知識、それら全てが乏しいので、いい感じのレポ記事にはならないかもしれないが。
ライブが終わった後もこれだけの気づきを与えてくれる小林愛香さんに感謝しつつ、この記事を締めさせていただこうと思う。
小林愛香さんの今後がより良いものになりますように。
ありがとうございました。