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63・1000円札を渡したらお礼を言われた

逃げられないように右膝の腱を切られた。

男はそう言った。

聞こえないくらいの小声だった。その上かすれて半分くらい空気が漏れている感じだった。

だけど今まで歩いてきましたよね。

オレは言った。

そんな細かいことはどうでもいい。

さらに壮大に息を漏らしながら、紙やすりをこするような声で男は言った。

医者にかかりたい。

救急車呼びましょうか。

男はちょっと顔を伏せて、いやいやと首を振った。少し頬が赤らんでいるようだった。
やさしくされたと思ったからか? かわいい、と図らずもオレは思った。

新宿駅南口改札前ではありとあらゆることが起こる。通勤の最寄り駅として5年目の、オレの確かな経験だ。
足元に女の子座りでうずくまる男の姿を、つむじの上からしげしげと見つめてみる。

明らかにプロテイン飲みすぎといった男だ。
見せ筋が張っている。もしかしたら直前に少し叩いて、漲らせたのかもしれない。
それにしても背が低い。160センチあるかないか。妙に頭も大きい。
鍛え上げた肩幅と胸筋のアンバランスが、もはやアニメだと思った。

駅前は朝のラッシュアワーが終わって閑散としていた。
オレくらいしか通りかからなかったから声をかけてきたのか。初対面の印象の悪さでは自信があるんだが……。
少し後悔しているようにも見えて、いじらしかった。男は迷いを振り切るごとく声を張り上げた。高音が裏返って瞬時に顔面がテンパるのが見えた。

この駅から電車に乗って病院に行くッ。

そうですか。

だからお金が欲しいッ。……電車賃を貸してくれ。

ハイいいですよ。

驚愕して、男はオレの顔を見つめた。

ついていってあげましょうか病院。

いや、いいッ。

また俯いて男は頬を染めた。オレは右ポケットに突っ込んだ1000円札数枚の中から1枚を素早く掴みだして、くしゃっと丸めて両手で男の手の中に握りこませた。

男は頑なに顔をあげようとしなかった。さらに声のヴォリュームは小さくなってモスキート音レベルへ。もう人間には聞き取れない。けれどオレにはわかったのだ。

なんの。

とオレは言った。


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