〈メタ合理性〉という精神――見えない糸を手繰る
もう随分前に、現代の避難所(アジール)を探さなければと、辿り着いた古本屋がありました。
そこの店主は、見えない糸を手繰る名人のような人でした。
そう、本業は、古本屋じゃないらしいのです(たぶん)。
人間の個人的な意志を超えたところで、人間と人間とをつなげている、目に見えない糸がまるで見えているかのようにデザインする人、と言ったら、ある程度、表現できているかもしれません。
店主と一緒にやりとりしながら何かを創っていくと、「自分」がとてもよくわかってくるのです。その捌き方といったら、まさに職人芸。
もちろん、セレクトしてある本は素晴らしいものばかりでしたし、すみずみまでその方のこだわりが行き届いていました。
いまは、西の方の島に移住されて、マルチプル・インカムな生活を送りながら、多様で素敵な物を創り出されています。
店主と私とをつないだのは、見田宗介(真木悠介)さん。見田さんの、最期の著作に『現代社会はどこに向かうか――高原の見晴らしを切り開くこと』があります。
この本の中で、見田さんはNHK放送文化局が第一次オイルショック以降に五年間隔で実施している「日本人の意識調査」を分析しています。1973年と2013年における若者の意識を比較し、そこから、「近代家父長制の解体」と「魔術的なるものの再生」は、無関係なものではないことを論証されていて、次のように書いています。
「魔術」というと、それだけでギョッとする方もいるかもしれませんが、あんまり言葉尻だけ捉えてベタに考えないことが大切かもしれません。「魔術」という言葉に、飛びつくこともなく、盲目的に批判することもなく、社会的事実としてあることを知ったときに、きちんとそれが何なのかを見つめ考えなければならないでしょう。
カール・マンハイムは、知識社会学の分析法を明らかにしたとき、部分的イデオロギーと全体的イデオロギーについて区別し定義しました。部分的イデオロギーは、敵対者の主張の部分を捉えてその内容の虚偽性を指摘するのに対し、全体的イデオロギーは敵対者の全世界観を問題とし、その社会生活との関連性を明るみに出すものとされます。そして、後者の方が進んだ段階にあると主張しています。
マンハイムは、あらゆる認識者の視座とその視座そのものが置かれている存在位置に制約されていることを認め(存在被拘束性)、特定の存在位置に拘束されないものとしての「自由に浮動するインテリゲンチア」に活路を見い出そうとした人でもあります。
何だか、だんだん難しい話になってしまいましたが、思考停止して長いものに巻かれろ式の時代の終焉を書きたかったのかもしれません。
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