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『普通という異常』(兼本浩祐)が示している社会的事実について

社会病理学やラベリング理論が明らかにしたのは、「マジョリティがそれを定義するから逸脱や病理になる」ということでした。

私の知人で、生き辛さを抱えてきたが発達障害という診断を得て、「ほっとした」と言われる方がありました。「自分が生き辛かった原因が解明された」というスッキリ感なのだろうと思います。

人は、原因を知りたがります。自分が辛くてしんどい原因を知りたがる。それがわかり、それがなくなれば解消するという医学モデルの考え方は、しかしおそらくきっと医学者らが一番よくご存じであるように、なくなれば解消するというそう簡単なものではないのでしょう。

この本の著者、兼本さんも、研究者気質のあられる先生のようです。兼本さんは、「ADHDやASDを病なのだと考えるならば、いわゆる普通の人、あるいは健常発達的特性を持つ人も、見方を変えれば、じゅうぶん、病として捉えることができるのではないか」と問題提起されています。

兼本さんがおっしゃる「普通の人たち」は、「相手が自分のことをどう考えているか」が、「自分がどうしたいか」よりも優先される人だとも述べています。

このことが行き過ぎると、病といってもよい状態になることを本で示されています。忖度過多症候群、対人希求性依存という表現で示されていて、近年の「いいね!」の数を競って集め合う現象に絡めながら深く考察されています。

兼本さんの考察が面白いのは、時代性も入れている点です。昭和、平成、令和の人びとの社会的性格というべきものを丁寧に観察されて書かれています。

社会学者のリースマンが『孤独な群衆』の中で他人指向型社会(自分の行動の選択を、他人が何を指向しているかによって決定する心性をもつ人で構成された社会)について書いてから随分経っていますが、その続編のような気持ちで読んでいて、ここでもご紹介しました。

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