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ローマ帝国の五賢帝時代について

1.五賢帝時代とは

12代皇帝のネルウァから、16代皇帝のマルクス・アウレリウス・アントニヌスまでの5人の皇帝が統治した時代のことです。「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」の全盛期と言われ、歴史家のギボンが「人類史上最も幸福な時代」と書き残した期間です。

2.五賢帝時代より前のローマ

紀元前753年にロムルスによって建てられたといわれるローマは、紀元前509年に王政から元老院(国会のようなもの)中心の共和政に移行しました。

パトリキ(貴族)とプレブス(平民)との身分闘争、カルタゴとのポエニ戦争、「内乱の1世紀」と呼ばれる時代などを経て、紀元前60年にカエサルポンペイウス、クラッススの三人が第一次三頭政治を始めました。カエサルは自らの活躍を恐れた元老院やポンペイウスと対立し、ファルサロスの戦いで勝利しました。ところが、カエサルは紀元前44年に暗殺されてしまいます。

翌年、カエサルの遺志を継ぐオクタウィアヌスアントニウス、レピドゥスの三人が第二次三頭政治を始めました。しかし、オクタウィアヌスとアントニウスは対立し、オクタウィアヌスは紀元前31年にアクティウムの海戦で勝利しました。紀元前27年には元老院からアウグストゥス(尊厳者)の称号を与えられ、初代皇帝となり、帝政が始まりました。初代からしばらくの間はプリンキパトゥス(元首政)と呼ばれる形をとっていました。

アウグストゥス,ティベリウス,カリグラ,クラウディウス,ネロの5人の皇帝によるユリウス・クラウディウス朝、1年に4人の皇帝が立った四皇帝の年、ウェスパシアヌス,ティトゥス,ドミティアヌスのフラウィウス朝と続き、この後が五賢帝時代を含むネルウァ・アントニヌス朝です。

3.ネルウァ

12代皇帝 在位期間:96~98年

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フラウィウス朝の断絶後、ネルウァが皇帝に選出されました。ネルウァはウェスパシアヌス帝やドミティアヌス帝の時代にコンスル(執政官)を務めた人物でした。

しかし、軍歴がなかったため軍部から支持されず、親衛隊が反乱を起こしたりもしました。即位当時すでに61歳で、子供がいなかったため、後継ぎがいませんでした。

そこで彼は、軍部からの支持も高かったトラヤヌスを養子として、政権の安定をはかりました。

在位期間はわずか2年で、内政もあまりうまくなかったようですが、トラヤヌスを養子としたことにより、賢帝と言われるようになりました。

4.トラヤヌス

13代皇帝 在位期間:98~117年

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初めての属州(ローマ本国以外の領土)生まれの皇帝で、「最善の皇帝」と呼ばれた人物です。

道路網の整備や貧しい子供のための養育基金(アリメンタ制度)など人々の暮らしの充実を目指した一方で、対外遠征もよく行いました。

101年から2回に渡ってダキア(今のルーマニア)王国を攻め、107年に属州ダキアとしたり(ちなみにルーマニアはラテン語で「ローマ人の土地」という意味)、106年にはナバテア王国(今のヨルダンやシナイ半島)を攻め、属州アラビア・ペトラエアとしました。

114年からパルティア(今のイランを中心とする広大な国)遠征を始め、同年にアルメニア王国を攻めて属州アルメニアとしました。その後、115年には属州メソポタミア(今のイラク南部)、116年には属州アッシリア(今のイラク北部)を作り、帝国史上最大の領土を築きました。

トラヤヌスの賢帝としての評価は、キリスト教重視の中世になってからも続きました。

5.ハドリアヌス

14代皇帝 在位期間:117~138年

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パルティア戦争ではトラヤヌスが病になったため、途中から総司令官を務め、トラヤヌスの死後即位しました。

トラヤヌスと違ってあまり戦争は好まず、パルティア遠征で獲得した領土で反乱が多く起こっていたことから、メソポタミア・アッシリア・アルメニアをすぐに放棄し、東方を安定させました。

他にもローマ帝国全土を視察したり、ブリタニア(今のイギリス)北部にハドリアヌスの長城を造るなど、国の防衛に力を入れました。

また、官僚制化を促進したり、ユスティニアヌス法典(ローマ法大全)の元となったローマ法の整備など、行政的な功績も多くあります。

さらに、ティヴォリに別荘を造ったり、火事で焼け落ちたパンテオン(サムネイルの画像)を再建したり、多くの神殿や劇場を造ったことなど、文化面でも有名です。テルマエ(浴場)を好んだことでも知られ、漫画『テルマエ・ロマエ』(及びその映画版)にも登場しています。

6.アントニヌス・ピウス

15代皇帝 在位期間:138~161年

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ハドリアヌスが元老院から嫌われていたため、神格化しないようにしようとした動きを防ぐために奔走したことから「ピウス(敬虔な)」という名前が付きました。

アウグストゥスに次いで在位期間が長い(23年)にもかかわらず、大規模な軍事遠征を一切せず、大規模な公共建築も残さなかったことから、「歴史のない皇帝」ともいわれます。しかしこれは、統治の仕方が上手だったからとも考えられています。

7.マルクス・アウレリウス・アントニヌス

16代皇帝 在位期間:161~180年 

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ルキウス・ウェルスと共同統治をおこないました。中国の歴史書『後漢書』に書かれている「大秦王安敦」だと考えられています。

161年にはルキウス・ウェルスを派遣してパルティア戦争を行い、勝利したものの、167年に「アントニヌスの疫病」と呼ばれる天然痘が流行したり、20年ほど続いたゲルマン民族とのマルコマンニ戦争の中でルキウス・ウェルスが死亡したりするなど、問題が絶えませんでした。

一方で、ストア哲学に詳しく、著書『自省録』に自らの哲学的な思考を書くなど、プラトンが理想とした「哲人政治」の代表として考えられており、このことにより賢帝として評価されるようになりました。

しかし、これまでの賢帝と異なり、養子ではなく実子のコンモドゥスに皇帝を継がせました。これは信頼している部下が相次いで裏切って反乱を起こしたことなどが理由でしたが、コンモドゥスは政治をすべて部下に任せ、気に入らない者をすぐ暗殺したため、側近に暗殺され、ネルウァ・アントニヌス朝は途絶えました。

8.五賢帝時代より後のローマ帝国

その後、1年に5人の皇帝(内2人は偽物)が立った五皇帝の年、セウェルス朝を経て、軍人皇帝時代と呼ばれる内乱の時代が続きました。284年に最後の軍人皇帝となったディオクレティアヌスは、プリンキパトゥスに代わってドミナートゥス(専制君主制)という政治体制にし、またテトラルキア(四分割統治)を始めました。

コンスタンティヌス1世ミラノ勅令でキリスト教を公認し、330年には都をローマからビザンティオン(今のイスタンブール)に移し、コンスタンティノポリスと名前を変えました。

最後の統一ローマ皇帝となったテオドシウス1世は、392年にキリスト教を国教化しました。しかし、彼の死後にローマ帝国は完全に分裂し、西ローマ帝国は476年にゲルマン人のオドアケルによって滅ぼされます。一方東ローマ帝国は中世にはビザンツ帝国と呼ばれ、1453年にオスマン帝国によって滅ぼされるまで1000年以上続きました。

9.参考文献

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サムネイル(パンテオン)

写真AC   https://www.photo-ac.com/

本文(五人の皇帝)

Ancient History Encyclopedia   https://www.ancient.eu/

参考文献

ローマ皇帝歴代誌 クリススカー 創元社 1998年

知識ゼロからのローマ帝国入門 阪本浩 幻冬舎 2009年

【決定版】図説・激闘 ローマ戦記 学習研究社 2007年

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