秘密の儀式--倒産する出版社に就職する方法・第64回

「おっ、おお。これな。これ、ちょっと事故ってなあ……」


ちょっと事故った。。。


さすがにメガネの破損は精神的ショックにより引き起こされたわけではなく、物理的な接触によるものだったようです。それにしてもメガネがこれほど芸術的に破損する事故とはいったい……?
メガネのヒビの原因はもちろん、亀裂に覆い尽くされ視界がほぼゼロであろう左レンズをそのままにしているのも気になります。


しかし、そんなことに頓着しないのか、はたまた触れてほしくないことなのか、山田氏はメガネの亀裂についてそれ以上語ろうとはしません。
それ以上語らないのを無理に掘り下げるわけにもいきますまい。なにしろ著者と私とは10秒前に出会ったばかりなのですから。
そしてなによりも、私は『人は食べなくても生きられる』の10月刊行に向けて、現状の原稿を著者納得の上で大幅に修正してもらう、という使命を帯びているのです。著者との関係性を良好に保つに越したことはありません。


「打ち合わせ前に、ちょっとやりたいことがあんだ」
改稿依頼を意気込む私を見透かしたかのように、山田氏はそう言って、駅前の駐車場に停めていた軽自動車まで案内してくれました。


打ち合わせ前にやりたいこと?


……なんでしょうか。気になります。
さすがにこれは聞いてもいいような気がしましたが、私はとりあえず行けばわかるだろうと何も問わず、ずいぶんと年数を経た軽自動車の助手席に身をゆだねることにしました。


十数分走ったでしょうか。軽トラックはある温泉施設前に停車しました。
「ここだよ、ここ。さあ、行こう」
山田氏は先に立ってずんずんと歩き出していきます。有無を言わさぬ強引さです。
これから大切な原稿についての打ち合わせがあるというのに、その前にやりたいことってなんなのでしょうか。多少不安感が募ります。


施設の鄙びた玄関を通り、木造の引き戸を開けて小部屋に入ると、山田氏は服を脱ぎ始めました。
「ここはホントいい湯なんだよ。秘湯みたいなもんで、平日の昼間なんてここには誰も来ない」
小部屋に男二人きり。服を脱ぎ捨て、素っ裸になった山田氏の言葉が、私の頭の中をリフレインします。




――ちょっとやりたいことがあんだ――
――平日の昼間なんてここには誰も来ない――




……。




温泉だけ。温泉に入るだけだよね?
やりたいことってそれだよね? 信じていいよね?
ホントにホントにやりたいことって温泉なんだよね?

私は少しだけ唇を噛み、軽く目を瞑り、ほんのり肛門を閉め、服を脱ぎ捨てました。


山田氏が立て付けの悪い曇りガラスの引き戸を開けると、その奥には八畳ほどの浴場が広がっています。山田氏のあとに続いて私も足を踏み入れます。
「これがサイコーなんだよお!」
そう言うと山田氏は浴槽から汲み取った湯を2杯ほど洗い場の床に流したあと、そこに素っ裸のまま大の字に寝転んだのです。身につけているのは左レンズが破損したメガネだけです。


……。



――ちょっとやりたいことがあんだ――
――平日の昼間なんてここには誰も来ない――



秋晴れの平日真っ昼間、この瞬間も四谷の空の下では、三五館のみんなが仕事をしていることでしょう。はるか新潟の地で、私はいったい何を見せられているのでしょうか。
(つづく)

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