極楽浄土(ユートピア)は物質にあらず

生と滅が繰り返す現象を生命という。滅のみに留まることを死という。ならば、生のみに留まることはあるのか。それを魂というのか。

この世界が平等だと思われるのは、世界の法則においては平等ということ、くらいである。

物質は平等ではない。しかし、法則は共有される。物質は共有するのが難しい。ある者が使用しているあいだはある者が独占する。空間と時間が物質の共有を不可能にする。しかし、情報は時空を超えて共有できる。

物質がなくなり、情報体になれば、すべては共有できるので、ユートピアは完成する。しかし、それを誰が望むだろうか。

これが左翼の限界である。物質がある限り、欲がある限り、争いは消えないし、格差もなくならない。ユートピアは地上には作れない。

欲望は独占に興奮を覚える。平等なものには価値を感じない。希少性がないから。エゴは希少価値を自分が独占していると思いたい。だから人と比較して一喜一憂する。みんなと同じでは自分の個性に価値を感じられない。だから奪い合い、競争し、マウントを取り合う。虚しい。

希少価値を独占し、それを仲間に分配すると、良い人と見なされ愛される。奪った人たちからは悪い人と見なされ憎まれる。仲間と敵ができる。虚しい。

自分のために強奪して来てくれる人を人は愛し、敵から攻撃されても敵を倒す強さがある人を人は愛し、しかも強奪する現場は自分には見せないでくれる人を人は愛する。実際はただの強盗なのに、その正体を隠して見せないでくれる人を。それを安心と感じる。仲間には優しく、それ以外には冷酷だが、それはうまく隠せる人を。よって、人に愛されることは虚しい。

したがって、物質的な平等の追求も、物質的な愛の追求も、虚しい。真に平等なのは法のみ。よって、ただ万人に等しく法を説くことだけが正しい。

しかし、法は平等でも、法を知る人は少ないなら、法を知ろうとすることもまた虚しい。それがまた希少性への欲望になり得るから、自分だけが法を理解していると思い上がり、傲慢に陥る。だから万民が法を知らねばならない。

しかし、誰が法を求めていようか。誰が法を理解する耳があろうか。多くの人は争いと奪い合いを好む。物質的な満足を好む。虚しい。

されども、あなたはただ、普遍の法を自ら探求し、法を万民に説き、万民と共有せよ。誰に愛されなくとも魂の満足を求めよ。そうしていくしかあるまい。

それが物質にではなく、生命にではなく、魂における極楽浄土、ユートピアであろうから。常世は無常の現世の内にある。法なくして変化もないからである。変化あるところには法もある。身体は朽ちて滅しようとも法が朽ちることはない。法は万民に平等である。

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