ツイッター小論集②


最近のツイートによる小論集をまとめて掲載する。

目次

【宗教の文化性】
【万人が復活するなら今信じる必要はないのか】
【キリスト教が根拠とすべきはマソラか七十人訳か】
【対抗宗教としての贖罪論】
【偶像への愛に対抗すること】
【善悪二元論の止揚(善悪一元論)】
【聖書と科学は矛盾するのか】
【キリストは人権思想家か?】


【宗教の文化性】

生まれながらキリスト教でも日本人として育つと仏教や神道の精神性は染み付いているもの。それくらい民族的な宗教の影響力は強い。魂の遺伝子(ミーム)に書き出されていて、教育的なものは上書きにしかならない。

だから所詮私たちはキリスト教徒(霊的ユダヤ人)になろうと、民族的ユダヤ人ではないので、外国人改宗者の身分にしかなれない。そして、おそらくそのままで良いと神様は言っておられる。改宗者には改宗者にしか灯せない文化の輝きがあるのだろう。

文化の輝きというより、真理の輝きという方がより敬意があるかも知れない。文化とはその民族の真理の断片に他ならない。

あらゆる民族的宗教の全てが邪悪であるなどと考えてはならない。そこには本質的な部分で一定の普遍性があるのであり、ユダヤ・キリスト教もそれらを吸収して応用し、純化してきたのである。そうした真理の断片が遮断と共に個性となり文化となっていく。

キリスト教があらゆる宗教を吸収して純化してきたなど冒涜だと感じるなら、史実を調査してみたら良い。または対抗宗教としてのユダヤ(キリスト)教を参照。


【万人が復活するなら今信じる必要はないのか】

万人が一度復活するのなら、今信じる必要ないという批判をたまに聞くが、そういう考え方の人は利己的に信仰しているか、利己的で信仰しない人なので、最初からクリスチャンにふさわしくないのかも知れない。

なぜ生命をかけてまで信仰を持つのかをもう一度考えた方がいいと思う。真理だと思うからではないか。

そもそもこれは新約聖書に直接的に書いてあることだし、異端とか自由主義とかいった考えではない。

イエスも言っていた。放蕩息子の例えで。忠実だった兄は、放蕩息子の弟が父に赦されるのを見て、父に不平不満を述べた。兄はユダヤ人、弟は異邦人に当てはまるが、信仰の動機が問われる例えとして普遍性がある。

ただ一部のリベラルが言うように、最後の審判による永遠の滅びはないというのも聖書の記述と一致しない。故に、一度万人が復活した後に、最後の審判があると考えなくてはならない。そして実際に聖書にはそう書いてある。


【キリスト教が根拠とすべきはマソラか七十人訳か】

新約聖書はマソラ本文(ヘブライ語)から引用してると思いきやほとんど七十人訳(ギリシャ語)からの引用で、ならば七十人訳が底本なのかと思いきや、現存する七十人訳と完全一致しない引用箇所の方が多い。よって不明。

比較的自由に自己編集して引用した可能性も否めない。

現存する七十人訳の写本は、小さな断片を除けば、ルキアノス以後の写本。それ以前のユダヤ人による写本(旧来の七十人訳、アキラ訳、テオドティオン訳、シュンマコス訳、オリゲネスの校訂版、ヘシュキオスの校訂版、ルキアノスの校訂版)はないので、元の本文や目録を正確に復元することはできない。

マソラ本文にはなく七十人訳にはある文を新約聖書著者が引用してたりもする。第二正典や外典からの引用と思える箇所もある。七十人訳にもない引用多数。七十人訳も色々な種類がある。著者の独自訳の可能性もあり。しかし大元のマソラ本文自体が原本ではなさそうなので、何がソースかは不明。

基本的にはマソラ本文の方が原本のヘブライ語聖書に近いとされる。なぜなら七十人訳の方が意味が通るように意訳されてる箇所が多いから。あえて意味不明にする必要性は低い。マソラは意味不明、矛盾になるような箇所も保存する努力の痕跡が見られるからである。


【対抗宗教としての贖罪論】

聖書はモレクへ人間の初子の生命を捧げるカナンの慣行を忌避している。しかし、アブラハムはイサクを捧げ、直前に止められたし、十字架上で贖いとなったイエス・キリストは父なる神の初子である。ここに対抗宗教としてのユダヤ・キリスト教が垣間見える。忌避(タブー)を純化して再取り込みがなされているのだ。

カナンでは初物は全て神に捧げるものだという考えがあった。だから初子や処女さえ神に捧げる。それが神への完全な敬虔さを示す行為だと考えられていた。ユダヤ教はこの神学に対抗した。ただ忌避したのではない。この神学の極意を再吸収し、純化して再解釈することで、カナンの神に対抗し、これを(乗り)越えようとしたのだ。

そしてこれは人間の知恵による計画でなく、神ご自身の計画だったのである。

間違った神学というのは全てが間違っているのではない。一見正しそうで立派そうな姿をしているのだが、解釈がどこか歪んでしまっているために、その実践は邪悪なものになったりするのだ。だからこそ、その神学の真意を再解釈して世に提出することが必要になる。

確かに神に対して全ての貴重なものを捧げようとすることは正しいことである。だからといって、我が子の生命や処女などといったものを神に捧げることが正当化されるだろうか?正義の神がそういうことを人に求めているわけではないことは明らかである。では魂を尽くして神に奉仕するとはどういうことか。

神はアブラハムの専心を見ようとされた。そして初子のイサクを捧げるよう命じるのだが、それが完遂されることはなかった。つまり、ここでは、ヤーウェはカナンの神とは異なり、そのような行為を人に求めることはないということを暗示しているのである。

またアブラハムが、人々がカナンの神々に対して示す専心に劣ることのない専心を示したので、ヤーウェはカナンの神に勝利したのである。ヤーウェはカナンの神々より憐れみ深い正義の神であり、かつカナンの神々の崇拝者の専心に劣ることのない専心を示される神であることが証明されたのである。

これが偶像に対する二重の勝利である。第一に偶像よりも正義の神であることを証明すること、第二に偶像よりも人間に専心されるにふさわしい神であることを証明することである。このような対抗宗教の神学によって、ユダヤ・キリスト教は一見正しそうだが間違っている偽りの神々に勝利していくのである。

イエス・キリストの犠牲についてはどうか。これはカナンのモレク崇拝とは考え方が異なっている。やはり焦点となるのは専心に関するものである。確かにイエスは神に専心を示した故に死んだ。しかし、神や祭司がイエスを殺したのではない。イエスを殺したのは、イエスの言葉を借りれば悪魔の子らである。

つまり、イエスは神に殺されたのではなく、悪魔的な意志によって殺されたのである。人間の悪しき心が神の初子を殺したのである。イエスは神に専心を示しただけである。本来死ぬ必要などない。しかし、そのイエスを人々が殺したのである。人間の側の方がモレク側に転倒しているのである。

しかし、これによって達成されたことがある。それは第一に、父なる神が人間に対して我が子でさえ惜しまずに与える愛を持っているということ。第二に、人の子イエスも神に対して死に至るまで専心を示す意志を持っていること。第三に、人間には厳然たる悪(罪)があり、救いを必要としていることである。

神はイエスに悪を見出さなかった。それ故にイエスを復活させ、イエスを信頼する者を救うことを良しとした。そしてこの復活により神の正義は証明されたと言えるだろう。神は我が子を殺すことを望んでなどいないが、罪ある人間を救うために何でも行なう意志を持っているということが証明されたのである。

こうして、ヤーウェはカナンの神々に対抗し、二重の、いや三重の勝利を示されたのである。

マリアが神の聖霊により処女懐胎をしたことも、バビロンやエジプトやカナンの神殿娼婦の儀式、女神崇拝への対抗宗教なのかも知れない。それについてはまた考えたい。


【偶像への愛に対抗すること】

「己を無にして献身する」という美を、偶像は悪用し利用する。これが宗教の闇のすべてである。生ける神の崇拝とは偶像に対抗することである。

生ける神はこの世にはいないということは、この世には信ずるべきものは何もないということとなり、すなわち無信仰こそ正しい信仰ということになってしまうが、これもまた偶像である。神の媒介としての言葉と霊なる力を真の偶像として信ずべきである。これもまた(仏教や無信仰に対する)対抗宗教である。

イエス・キリストこそ神が認めた唯一の偶像である。それは偶像崇拝者全般に対する神の対抗宗教である。

神がエバでなくキリスト(アダム)を偶像として擁立したのは、アスタルテ(すなわちエバ)崇拝への対抗宗教である。伝道7:28で、千人の中から一人の男を見つけたが、女は見出せなかったとはイエスのことである。人の専心は異性(恋愛)に向かいやすいからだ。これも偶像である。

といいつつ、雅歌は人間の男女間の恋愛を美しいものとして肯定している。これは一方の極端に傾くことを避けるために置かれた知恵の書である。


【善悪二元論の止揚(善悪一元論)】

ない、というのは、ある、の裏返しなので同質であって、悪の裏返しが善とはなり得ないということをヴェイユは言っていた。悪の裏返しは悪でしかない、と。善と悪は根本的に相違している、と。

あるとかないとかの次元でなく信のみが真理だろう。あるとかないとかは同質の悪なのだろう。

これもヴェイユの言葉だが、

「悪は、限りがないものである。だが、無限なものではない。無限なものだけが、限りがないものに、限りをつける」

無限だけが、限りのないもの(=悪)に限りをつける、のである。限りのないことを無数と呼ぶことにする。無限だけが無数なものに限りをつけられる、ということ。次節では「悪は単調」で「まがいの無限性」だと言う。

真理はあるもないも単調である。そしてあるのは解釈だけだというのはまがいの無限性である。したがってそれら単調で無数のものに限りをつけられるのは無限しかない。無限とはどこまでも深く、終わりがない。それが信である。

ヴェイユが私の思いを要約してくれている。

「悪と同じレベルのものとしてとらえられ、互いに相対立するものとみなされた善は、刑法上の善にすぎない。このような善のはるか上方に、こういう低い形の善よりもある意味では、悪の方にもっとよく似ている善が存在する」。

聖書は刑法上の善についてももちろん律法(戒律)で述べているが、本当に言いたいことは、悪魔に利用され奪われた善に見せかけられた堕落した善(=悪)を取り戻し、本物の高次の善をそれと同じように似通った方法で示すことだ。それがキリスト教が対抗宗教たる所以だ。

殺すが悪ならば、刑法上の善は「殺してはならない」である。しかし本当は殺してもよい善が存在する。偶像が悪ならば、刑法上の善は「偶像を礼拝してはならない」である。しかし本当は偶像として礼拝してもよい善が存在するのだ。

これは非常にセンシティブで一歩間違えればとんでもない誤解となる諸刃の剣だが、これは異端や反社会的な発想などではないと思う。

なぜなら善は一つだからである。刑法上の悪に対抗するために刑法上の善を追求しても極端な禁欲的修行になるだけであり、結局のところそれは悪と同質なのである。これが律法主義である。

例えばネットなどで、人権遵守は善であるとの観念から、非人権的と思える要素をすべて悪とみなして排除しようとする傾向も悪と同質である。ヴェイユもそういうのを「デマゴギー」(民衆扇動)だと言っていると思われる。

モレクへの生贄は刑法上の悪である。
罪に対する動物の犠牲は刑法上の善である。
しかしそれらは同質である。
高次の善(唯一の善)はイエス・キリストの捧げた犠牲である。
これはモレクの生贄とも動物の犠牲とも似て非なるものである。

神はまず罪を知らぬ人類に、刑法上の悪と刑法上の善を律法を通して教えた。しかしそれはより完全なものの影だったのである。より完全なものであるキリストが到来した時、律法は養育の目的を終え、廃されたのである。

旧約におけるヤーウェの裁きが手厳しいのは、人類に罪を教えるためであり、贖いが当然のものではないことを教えるためである。人間の生命は神から預かりしものであり、それは当たり前のものではなく、神は生命を大事にしない者から生命を取り去る権利を持っているということを。

新約では神の慈悲は強調されている。実際は旧約でもヤーウェは罪と神聖さについて学び知った者に対しては慈悲深い。神は断罪されるが、愛によって咎を赦し、救われる。贖いは与えられて当然のものではない。いや、神は愛だから必ずそうしたはずだが、それは当然なもの、気安いものではない。

罪の重さと恵みへの感謝の深さを人に教えるために、旧約と新約は存在する。それは矛盾するものではない。補い、補強し合うものなのである。


妬みは悪とされる。しかし愛の神は妬む。妬みは悪だが、妬まないは善ではない。悪なる妬みは善の誤用なのである。刑法上の悪と高次の善とを区別するために、こうした点を洞察していけば、有意義な黙想ができると思う。

罪というヘブライ語は的を外すという意味があるので、罪というのは善の誤用のことなのであろう。やはりユダヤ教は善悪二元論ではない。

ユダヤ人であるジャック・デリダは二項対立を脱構築したが、彼もやはりユダヤ人であり、西洋文明のアーリア的二元論からユダヤ的一元論を救い出そうとしたのである。


「正義の戦争(対立)」と同質の悪が「単なる平和」の中に生じる。無関心と自己中心によって。よって、善とは聖なる戦争である。

ジハード、聖戦、聖絶、ヘーレム、アナテマと言った言葉の中に善がある。カナン人征服の聖絶と偽りの平和主義を止揚する高次の善とは、それは自らの中から悪を断つための闘いのことである。

苦しみに耐えるとは自らと対立するということではないか。他者と対立するのではなく、自己と。自己の中に悪を封じること。

非行動に苦しみに耐えることがヴェイユの言う善である。しかし、世界の重圧は個人には重すぎる。自身の重力も重いが、現代社会の不信仰の重圧はもっと重い。まさに地獄である。

ネットでの発言の悪は、「神聖な知識を豚にも与えてしまうこと」だろう。無駄な対立が生まれる原因はそこかも知れない。無差別に与えてしまう悪。本当ならば、聞く耳を持つ者にのみ伝えるべきなのだろう。

ならば有料化も選り分ける機能としては良いのかも知れないが、イエスは「ただで受けたのだからただで与えよ」と言っているので、それは方法論としては本来的には間違っている。

現実生活の場では内面の深い話など相当聞く耳を持ってる人か判断してからでないと話さないだろう。でもネットの海には内面の深い事柄を無差別に投じてしまう。それゆえ無駄な対立が生まれるのではないか。

対立自体はあって良いし、悪ではない。単なる平和は悪である。それは対立の時と変わらないほどの悪(道徳的退廃)を蔓延らせる。本当の善は対立をもたらす。イエスも、偽りの平和ではなく、剣を投ずるために来たと言われたように。

優劣がなくならず、貧富がなくならないのと同じく、対立(愛憎)もなくならない。それはどうやってもなくせない。大切なのは、それをなくすことではなく、強い方が弱い方を支えることである。

敵が弱者だった場合に助けに回れるかどうかが鍵のようだ。その人にとっての善きサマリア人になれるかどうか。


【聖書と科学は矛盾するのか】

聖書には分からないところが色々ある。ふつうに読んだら科学と相反する部分も。例えばアダムが前4千年前に誕生したことになる点など。でもそれは我々の既存の聖書解釈がまだ未熟なのであり、神の存在が否定されるものではない。それは論理の飛躍。科学と聖書は両立する。

ユダヤ人はしるし(物的証拠)を求め、ギリシャ人は知恵(論理的根拠)を求める。しかし、神の子らは十字架のキリストを語る。それは神秘的に隠された知恵。神は賢人たちの知恵を滅ぼす。

しるし→物的証拠→実証科学
知恵→論理的根拠→数学・論理学
福音→聖霊により隠された神秘的な知恵の理解

参)コリント第一1,2章

ユダヤ教では創造記1章の創造は全人類の創造であり、2章のアダムはヘブライ人の祖の創造という解釈がある。つまり、人間の創造は数十万年前でも良く、ヘブライ人の祖アダムの創造が前4千年前頃となる。私はこの解釈に納得したわけではないが、このうな例を出したのは、神を否定せずに解釈できる余地はまだまだあるに違いないということだ。私たちがそれに気づいていないだけで、それを発見する方に努力を傾けた方が良い。

多くの神学者はノアの洪水などは自然科学の理論に則って生じたと考えているのに、生命の誕生は自然科学の理論(進化論)に則って生じた可能性を考えないのはなぜか。神は奇跡をなす時、物理法則を破ることなく行われると思う。科学と聖書は調和すると信じる。我々の解釈が未熟なだけだと思う。

科学を盾に神など居ないと言う者も、聖書を盾に科学など嘘だと言う者も、おかしいと私は思う。信が足りないし、理性も足りない。

しかし、科学と矛盾はしないが、全てが科学で記述できるとは思わない。科学で記述できる範囲を越えた背後には神秘的領域というのは残るだろう。科学が現実世界の現象全体を記述することは永久にできないだろうと思う。

したがって科学的世界のみが現実または実存だというわけにはいかない。さらに科学と矛盾する神秘というのはないと思う。矛盾するのではなく、記述できない領域が存在する(または認識される)ということ。

例えば、クオリアや質的性質は数学によって記述しようがない。存在することは事実だが、それを数値で記述することはできない。赤の波長は記述できても、赤の感じは記述できない。そういう神秘的領域があるということ。

過去の封印された事実も科学で記述することは永久にできない。何かしらの事柄が実際には起きたはずだとしても、物理的な証拠が封印されてしまえば、取り出すことはできない。科学は現実をごく部分的にしか記述できないのである。だから私たちは信を確かに必要としている。


【キリストは人権思想家か?】

世の中の人権・尊厳の発想と聖書の人権・尊厳の発想は異なると思う。それらを同じように考えると逸脱する。

人権思想は自分の命や身体や財産を自分の所有物だと思っている。そこが問題。すべて神から預かったものなのに。

生命は自分の所有物ではない。自分の所有物かのように生命を扱うのは間違っている。だから自殺や自死は罪であることに変わりはない。

聖書は男女平等の教えではないし、同性愛行為を認める教えでもない。それを認めたい気持ちは分かるが、それを認めると矛盾をきたす。

それらを認めるには聖書の記述を破棄しなければならない。だからそれらを認めようとする人々は聖書をかなり相対化する。

抽象化されたキリストという存在を基準にすべてを再解釈しようとする。実質彼らの言うキリスト=人権思想である。キリストならどうしたかと。そしてそれがキリスト教だと言う。

ユダヤ・キリスト教は西洋で発展したが、元々西洋の宗教ではない。西洋のキリスト教はギリシア哲学の産物である部分が大きい。キリストは人権思想の創始者ではないし、西洋的人権支持者でもない。

なんでも人権を中心に考えるのは思考経済としては単純なので、深く考えなくても判断できる。しかし、聖書は神権と人権のせめぎ合いの中にある。単純に考えるなどというわけにはいかない。

「同性愛は罪だ」と同性愛者を貶めるのも罪です、と言っている人がいた。この論理を応用すれば、どんな宗教を信仰してもそれは罪ではないということになる。

信仰は変えられるが性愛は変えられないでしょ、変えられないものは罪ではないと彼らは反論するかも知れない。しかし罪の性向をなくすことはできないように、どんな罪の性向も変えられないものである。罪の定義は自己否定の中にある。それに信仰は変えられるものという考えも必ずしも当てはまらない。人間は生まれて来た土地の文化にかなり影響される。

そもそも聖書の罪の概念は一般的な犯罪とは異なるものではないか。聖書では、自然的な死も病気も災害も、罪の結果生まれたものなのである。同性愛は犯罪ではないが、聖書的には罪の結果なのである。

では、死や病気や災害が罪によるものだからといって、それを排除して生きるということはできない。私たちは罪による結果としての現実を信仰のうちに生きるのであるから。だから同性愛者の信仰を差別する何ら正当性はない。私たちがみな自然的死を被るように、同性愛者もたまたま自然的に同性を愛する性向を持って生まれてきたということだ。

同性愛だけでない。不倫以外の離婚も罪だし、不倫的な性的欲求も罪だし、極端な男女平等論も罪だし、性を売り物にする仕事も罪だし、それを消費することも罪、またはその結果である。

リベラル派の人々にはその辺をもう少し考えていただきたい。


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