雪山            209-1/21

 「雪山」は冬の季語だということである。雪山を見るときが春でも、それは冬の句なのかな。そもそもそういう、分け方とかあるのだろうか。

 そんな疑問で調べてみると、こちらの句が見つかった。 

雪山に春が来てをり美しや/高木晴子 

 この句には雪山と春という二つの季語が含まれている。この句の主役は春だと言える。主役がどのことばなのかを見極めると、どの季節を詠った句なのかがわかる。 

 もう一つ、季違いの句として有名だというこちらの句。 

蛤のふたみにわかれゆく秋ぞ (芭蕉)

 蛤(はまぐり)は春の季語で、ゆく秋を蛤に例えているだけである。そうであるならば、やはり主役は秋ということになる。季違いの意味は、「(俳句などで)それにふさわしい季節と違っていること。」(三省堂 大辞林 第三版)とある。もし、秋に蛤を食べているということであれば俳句として矛盾することになるからおかしいのだろう。現代は、どの季節もたくさんの食物があり、食べ物における季節感が薄れてきたというのはもはや言い尽くされていることである。

 ところで、「ふたみにわかれ」とはどういうことなのだろう。

 芭蕉は、東北から北陸にかけて「奥の細道」の旅をして、その最終地点が大垣(今の岐阜県)であった。その大垣の人々と交流したのち、桑名(今の三重県)に旅立った。伊勢の神宮の遷宮を参拝する旅につくためである。「ふたみ」は二見浦のことで、神宮の近くの海岸である。近くと言っても、今の道路で歩いて二時間余りかかる(地図で確認)。二見浦まではどこからか航路を使ったのだろうか。桑名からの陸路だと神宮の先に二見浦がある。もしかして、桑名から船に乗ったのかな。桑名も海沿いだし、船だとかなりショートカットできる。

 いずれ、大垣の人々と別れて二見をめざすという。「二見」と蛤の「蓋」と「身」にかけているという。しゃれである。おもしろいなあ。桑名の名物の蛤ももしかけてかけているのかな。当時も名物だったのか気になる。

徳川家康を初め歴代将軍に献上するのが慣例になっていました。     参照→https://item.rakuten.co.jp/marutakasuisan/c/0000000107/   

 可能性はある。

 ここまで興味をもって調べたきっかけとなった自作の句がこれである。

        雪山やかつて火山の相を見せ

 雪山を見たのは春、きょうである。これはどういう状況かわかるだろうか。

 季語は一つなのに、最初の疑問からずいぶんかけ離れて広がっていってしまった。最初の疑問の答えはと言えば、霧の中である。

 季語で判断するのだろうか。状況を推測して判断するのだろうか。もっとわかりやすく作るべきなのか。


2020/02/22追記

 「かつて」が「見せ」にかかっているのが気になった。言いたいことはこうだ。

        雪山や古き火山の相を見せ

 見せているのは今だということが言いたかった。

 

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