思考の正体

何故僕たちは本を読むのか?ある人は学ぶためと答えるだろう。ある人は娯楽のためと答えるだろう。どちらも正しい。何故僕は本を読むのだろう?思い通りに生きたいから?物語の登場人物に自分を投影して、救いにするためか?

優れた物書きは優れた読み手だと言う。では、優れた読み手は優れた物書きであるのか?自分の思考とはいったい何なのか?その芽はどこから生まれるものであるのか?その芽はもともと自分の中に存在しているのだろうか?何かしらの経験を通して、自分の中に培われるものであるのだろうか?あるいは全く無の状態から偶然ポッと現れるものなのだろうか?

人は教育によって、立場や価値観を形成するものなのか?一人の人間が何かを考えるとき、それは周りからの影響を受けた受け売りのものであるのだろうか?僕にはよく分からない。仮に僕の思考が誰からも何からも影響を受けずに生じたものだったとして、それをどうやって確かめることができるのだろうか。

とりあえずそれは置いておくとして、思考とは言葉であるということについて考えてみる。僕たち人間が他の動物と違うのは、言葉が存在するかどうかだと思う。人間は言葉を発する。それはふわふわとした概念をくっきりと認識するための手段である。僕たちは言葉を使用してはじめて、物事の形を捉えることができる。そうしなければ、たちまちそれは水のように姿や形を変えてしまう。そういう状態のときは僕たちは考えというものを自らの物にしているとは言えない。思考するとはそれぞれの人間が、それぞれの尺度によってものごとを捉えて、形にする作業の事を言うのだろう。

読書にしたって、会話にしたって、僕たちはひとたび形になったものをお互いにやり取りしている。それはそれぞれの人間の解釈を共有する行為に等しいと思う。自らが作り出した思考を一本の線とすると、自分以外の人間が作り出した線を受け取って、自らの線を二本にするといった感じだ。そうやって僕たちは他人の考えを受け取って、線をどんどんと増やしていくのだろう。それが思考を深めていくということなのかもしれない。

そんなことを繰り返していくうちに、束の中で埋もれてしまった自分の線を見失ってしまう。そうすると、この考えが一体自分のものであるのか、はたまた受け売りのものであるのかが分からなくなってしまう。しかし、僕はそんなもの大した問題ではないように思う。もはや自分の考えという線は束に飲み込まれてしまって、一つの塊になってしまったのだから。

このイメージを持つことができるようになると、考えるということが一体全体どういうことなのか、少しだけ分かったような気がする。初めは貧弱ですぐに切れてしまいそうな一本の線だったものが、他者のものを集めて束ねることで、まるで筋肉が大量の筋繊維から成り立っているように頑強でしっかりとしたものに完成するのだ。

僕が本を読む理由はそういうことなのだろう。しかし、思考の束を太くしたところで、一体何の意味があるというのだろうか?人よりも偉くなりたいのだろうか?違う。多分、後悔したくないのだと思う。これからの人生には様々なことが待ち受けている。その時を万全の態勢で迎えたいのだと思う。やれることはやった、あとはなすがままにといったところだ。

思考と思考とがぶつかり合ったときにそれぞれは対立する。それは正義と正義のぶつかり合いと言い換えても良いだろう。その時に自身の考えや価値感というものが貧弱であればあるほど、ぐらぐらと揺れてしまう。その瞬間に人は迷い、悩むのだろう。僕はそれが嫌なのだと思う。相手を飲み込んでしまえるくらいどっしりとしたものを拵えておきたいのだ。

しかし、それは傲慢であるということに他ならないのかもしれない。いけない、また振出しに戻ってしまった。

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自分用。

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