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学ぶ ~新しい酒は新しい皮袋に~

みなさんは「学ぶ」についてどのようなイメージをお持ちだろうか。教室に集まって机に向かい、教師が語る内容を頭に入れる。自宅や自習室で、参考書や問題集に励む。パソコンやスマホで動画を見て知識を吸収することも含まれるのだろう。スポーツや音楽、美術における様々な技術を身に付けることも挙げる人もいるはずだ。
このように、「学ぶ」には様々なイメージがある。一方で、共通点もある。それは、「知識や技術」を「身に付ける」ということだ。もっと抽象化して「新しい事柄を得る」と言ってもいい。たとえば、教師や先輩が話すことに「それ、知っているけど」と思うことはあるだろう。その内容を伝えられたことを「学んだ」とは考えないはずだ。つまり、「知らなかったこと」がわかる、「できなかったこと」ができる。こうなって初めて「学び」だと認定される。
この考え方は正しいと私は思う。ただ、足りないとも思う。何が足りないか。それは、「受け入れる側」への視点だ。「新約聖書」という古い本を持ち出してみよう。その日本語訳には「新しい葡萄酒を古い皮袋に入れることはしない」という表現がある。その後には「もしそうしたら、袋が張り裂けて、酒が流れ出てしまうだけでなく、袋もだめになるだろう。新しい葡萄酒は新しい革袋に入れてこそ、両方が無事に保たれるのだ」と続くそうだ。これが「新しい酒は新しい皮袋に盛れ」ということわざになった。「新しい考えを表現したり、新しいものを生かしたりするためには、それに応じた新たな形式や環境が必要である」という意味だ。「新しい事柄を得る」では、「新しい事柄」にばかり視線が注がれている。「新しい事柄」を「得る」には、「得る」側も「それに応じた新たな形式や環境」が必要なのだ。仕入れた情報ばかり新しく、使う側が古いままであれば、新しい情報を使いこなすことはできない。
要するに、「学ぶ」とは「変わる」ことだ。これを忘れていると、せっかく知識を頭に入れても使いこなせないし、そもそも覚えることができない恐れもある。ただ、意識しないとすぐに忘れてしまう。肝に銘じておきたいものだ。

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