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決める~相手の立場に立つ~

 世の中は、多様性にあふれている。人々は、どんな違いも捨象されることはなく、価値のある差異をもったかけがえのない存在として尊重される。理念としては非の打ち所がない。ただ、このような発想は、個人や自我が「発明」された近代以後のものであろう。私たちは、固体や所属集団の生存・繁栄のために、自分に近いものと友好関係を結び、そうではないものを排除してきた。これは生命の適応上、理にかなっている。そもそも私たちの脳は、150人程度の集団で生活するようにデザインされているらしい。際限のない多様性など、脳の処理容量が追いつかない。したがって、私たちは身の回りの多くの事柄を、無駄のないように、できるだけシンプルに捉えている。それには言葉の意味も含まれる。多義語というものが存在する。一つの単語で複数の意味を表現できるのだから便利な気がするが、受け取る側にとっては、どの意味で理解すればいいかを決めなければならない。使用者が狙った意味で受け取れればよいが、受け取り側が選択を誤ることもありうる。恋人や夫婦の喧嘩の原因の多くは、この誤りが引き起こしている。国語や英語の問題で、「読めたと思ったのに間違えた」という感想を抱いたことがある人も多いだろう。原因は同じだ。いろいろな受け取り方ができる言葉や表現について、使用者が指定した意味とは異なる意味で受け取ってしまえば、円滑なコミュニケーションが成立するはずがない。個人個人の多様性を尊重すべきだとしても、言いたいように言う、聞きたいように聞くでは社会生活は営めない。
 では、どうすればよいのだろうか。
 私の答えは、相手の立場に立つ、だ。これ以上の解決策はないだろう。ダイバーシティ(多様性)の世の中を生きる私たちが掲げる理念としても申し分ない。みなさんもどこかで言われたことがあるはずだ。しかし、相手は自分とは異なる存在だ。だから、実際に相手の立場に立つことはできない。よって、より正確に表現し直すと「できるだけ相手の立場に立つ努力をする」ということだ。では具体的には何をすればいいのか。多義語の意味を特定する場面を想定してみよう。古文には「る・らる」という助動詞がある。そもそもの意味は「自分の力ではどうにもならない」だが、現代語では自発(つい~してしまう)、可能(~できる)、受身(~される)、尊敬(~なさる)の四つの意味に分けられる。古文の文章でこの助動詞を見つけたら、四つの意味のいずれかで訳さなければならない。ちなみに、受信者本位で「読みたいように読む」と、だいたい「受身」が選ばれる。では発信者の立場に立つにはどうすればいいのか。できるだけ発信者の情報を集めることだ。接続している動詞は? その動詞の意味は? その動詞の主語は? その誰かはエライ?…。周辺情報を可能な限り集めることで、発信者に近い立場に立つことができる。しかし、毎度このような処理をしていては時間がかかる。だから、特定の周辺情報の有無で意味を決める「規則」が考え出された。「心情知覚動詞に接続していれば、自発」「打消・反語とセットなら可能」などだ。これなら受信者の主観の混入を防ぐことができ、可能な限り客観に近づける。ただ、この「規則」はあくまでも周辺情報を効率よくチェックするための方便である。古文でも、日常の会話でも、「規則」を絶対視するのは危険だろう。大事なのは、発信者の周辺情報をできるだけ集め、発信者に近い立場に立って受け取ることだ。これが「相手を尊重する」ということなのだろう。

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