見出し画像

『自分と同じ名前のキャラが出てきたらなんか恥ずかしい』の回

小説や漫画、ドラマなどで自分と同じ名前のキャラが出てくると、なんだか恥ずかしい。自分の名前はそんなにオーソドックス(?)な名前ではないので、作品に出てくる登場人物と名前が一緒になったことはこれまで一度しかない。しかし、その作品に出てきた自分と同じ名前のキャラが、妙に察しが良くて粋な言葉を投げかけるタイプの性格であり、なんだか謎に自分を投影してしまい、ものすごく恥ずかしくなった。いやいや、カッコつけすぎやろと。

こういうことを考えると、素晴らしいとされている有名な作品でも、登場人物の名前が自分と同じであるがために、そこになんだか引っかかってしまい純粋にその作品を楽しめないといった人がこの世にはいるのだろう。『これすごいいい作品やけど、登場人物がおれと同じ名前やからなんか感動できんわぁ。だって現実のおれこんなんちゃうもん』みたいな感じで。

まだ登場人物の名前を名字までしか設定していない作品では、こういった問題は起きにくい気がする。名前の一致は自分自身の投影を誘発する媒介としてかなりの影響力を有するように思えるが、名字の一致は名前のそれよりは幾分かマシに思える。個人的には、名字が一緒で下の名前は別よりも、名字は別で下の名前が一緒のほうがなんだか居心地が悪くてソワソワする。まあ名字と下の名前の両方が完全に一致したときにはたまらんけどね。

しかし、ノンフィクション、現実の世界で同じことが起こった場合は、これまた話が変わってくる。仮に現実の世界で自分と同性同名の人がいたとしても、その人物の一挙手一投足が気になり、なんだかムズムズすることはほとんどない。あくまで現実の人物は別の個体として完全に自分と切り離して認識している。フィクションの世界では、下の名前が一緒なだけでもなんだか恥ずかしいのに。

フィクションの作品は作者の生み出したものプラス、それを受け取る受け手側のフィルターを通したものが組み合わさって世界観が形成されている。つまりは作者の設定に対して、その設定を補完するように自分なりの解釈を加えている。だから、フィクションの登場人物の性格形成には受け手の想像や考えが介入する余地がある。しかし、ノンフィクション、現実の人物はそうはいかない。現実の人物は完全に自分の想像の範疇を超えた存在であり、ある程度の性格や為人ひととなりを知ることはできるが、その人が考えていることまでは完全に知ることはできない。他人の性格は、あくまで自分の受けた印象からはじき出された暫定的なものであり、その本当の姿は知ることのできない未知の領域である。なんなら、他人に限らず、自分の考えていることさえ分からないときがある。

そう思うとフィクションを味わう際には、名前が一致するしないに関わらず、少なからず自己を投影しているようにも思えてくる。と言うか当たり前のようにそうしているもんだ。だからこそ受け手によって作品の感想、解釈は変わる。さらには同じ作品に対しても、昔はなにも響かなかったのに、大人になってからもう一度触れると驚くほど素晴らしい作品であったと気づくことがある。これも受け手側が同一人物であっても、時間の経過によって自身の実態が変化しているために起こる現象であろう。

しかし、ネットなどで様々な人たちの作品に対する感想を眺めていると、ときおり自己の投影が不自然になされているように感じることがある。まず最初に作品があって、そこに自分を通して自然と出てきた感想ではなく、自分の言いたいことが先にあって、作品を無理やりそこに当てはめて吐き出された感想のようなもの。あくまで作品が上流に位置するべきであるはずだと個人的には思ってしまう。

ってことを考えていると、ひとつ気がついたことがある。この都合のいい自己投影、フィクションの世界だけでなくノンフィクション、現実の世界でも同じことが起きていないだろうか? そう、それはいわゆる思い出補正というやつだ。過去も一応、現実の世界で起きたことである。それでも過去を思い出す際には、フィクションを味わうときと同じように"今の自分"の解釈が介入する。思い出補正は過去の出来事に対して、今の自分の都合の良い解釈が加わるからこそ起きる現象である。

じゃあもはや過去はフィクションなのか? あれは夢の中の出来事だったのか? どれが現実に起きたことで、どれが自分で勝手に作り上げたことなのか。これは本当に自分の記憶なんだろうか。ああっ、頭が痛い・・・。何か忘れていた大事なことが思い出せそうな気がする・・・。でも思い出せたそれも本当にあったことなのか?


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?