旧態依然と次世代の胎動

2019年11月の中国湖北省出身の男性が最初の症例とされ、その後、世界中で感染が拡大され続ける新型ウィルス感染。日本も例に漏れず未だその渦中にある。しかし、現政権与党の対策は、お世辞にも良いものとは言えない。次期衆議院議員総選挙も先延ばしとなり、民意が示される具体的な手段を棚上げされたまま、愚策を取り続ける総理と政権与党への批判は止まない。

新型ウィルス感染が問題となる少し前、2019年07月には参議院議員選挙が行われていた。その参院選では、新たな公党が2つ誕生することになるが、本記事ではその件よりも、その裏で起きていた現象に注目していきたい。

新型ウィルス感染の問題がまだ起きる前、政府の行った消費税アップをはじめ、その他経済政策への異論を唱えた若者がいた。若者は言う、「若者でも政治に関わっていいだろ?」そのひと言から、変革の胎動が始まって行く。

小さな抵抗、変革への胎動

2018年某日、1人の若者がTwitterで政治への疑念を漏らし始めた。当時、彼は高校生(18歳)であったという。

その頃はまだ消費税は8%であり、消費税10%への引き上げが既に決まってはいたものの、今のような新型ウィルス感染の問題で政府があからさまに批難を浴びている状況ではなかった。そんな中でも政府の様々経済政策等で広がる貧富の差、年金をはじめ国民へ押し付けられる様々な負担、生き苦しさはまだ若い彼が実感するまでになっていた。

その生き苦しさを感じていた若者は彼だけではなかった。ツイッター等インターネットの中のSNSでは、同様の疑念を漏らす者たちはいたものの、ツイッターは基本、個人の”つぶやき”である。彼らの声はまだ、このときは世間へは響かない。まだ、国へは届かなかったのである。

そしてしばらく時は流れ、参議院議員選挙が近付くと、彼ら若者たちの想いを代弁するかの如く声を挙げ、たった1人で政治団体を立ち上げた政治家が現れたのである。元参議院議員であった”その政治家”は言う「こんな世の中を変えたいんだ。力を貸してください。」この叫びにも似た訴えは多くの若者たちの心へと響いた。その訴えに呼応したかのように、”その若者”もさらに声を大きく訴えはじめる。政治家と市民が同時に立ち上がったこの現象は、後にその活動の広がりと勢いを指して”旋風”と呼ばれるまでになるのだが、このとき、まだその片鱗を見るのみに止まってしまう。

参議院議員選挙の結果、”その政治家”が自らが立ち上げた政治団体から2名の国会議員を誕生させ、政治団体から公党としての格上げには成功したが、”その政治家”本人が国会へ戻ることはできなかった。

しかし、すでに胎動は始まり、その鼓動はさらに大きなものとなる。

成長する意思、個人から団体へ

参議院議員選挙の少し前、”その若者”は自らを「若者勝手連」と称した。

※勝手連(かってれん)
日本において、あるテーマに賛同する者が自発的に集まって支援する市民活動の様式。1983年の北海道知事選挙で候補となった横路孝弘氏を支援する団体が「横路孝弘と勝手に連帯する若者連合」を名乗ったことに由来する。

参議院議員選挙当時、まだ”その若者”の下へ集った者は数名であり、団体と言えるものではなく、昨今のようなまとまりがあったようには見られなかったが、参議院議員選挙を終えた後、その熱意や活動は下火となるどころか、さらに勢いを増して行くのである。

聞くところによると”その若者”の下に集った「若者勝手連」の中には、政策に関する知識のある者や、政党や選挙の知識のある者たちまでいるという。事実、ツイッターの中でも度々起こる政策論争でも、”その政治家”が提唱した公約を理解し、丁寧に説明することで日々その理解の輪を徐々に広げている様子が見受けられる。

”その若者”が「若者勝手連」と名乗りを上げた当初、まだ世間ではその集まりを否定的に見る目もあった。”その政治家”の話題性に便乗し、好き勝手にやってしまう者たちの集まりではないのか、という意見もあったのだ。
参議院議員選挙後”その政治家”は、自身を応援していた「若者勝手連」を「党の公認組織ではない」と言って無関係としていたことも、否定的に見られてしまった要因の1つであったのかもしれない。しかし、そんな中でも彼ら「若者勝手連」はその活動を止めず、”その政治家”と党を応援する姿勢を貫いたのである。「自分達がどう見られているか」よりも「自分達がどうしたいのか」を常に示し続け、決してその言動や行動は横暴なことは無く、彼らの熱量と意思は徐々に世間の理解を得ることに成功した。

”その政治家”の立ち上げた党以外の政治政党(公党)には、「青年同盟」や「学生部」「青年部」といった、下部組織としての支持団体を持つ政党もあるが、「若者勝手連」は公式にはどの政党にも属さず、独自に存在する団体となったのである。

”その若者”たちは、自分たちで勉強を積み重ねることも忘れてはいない。
年齢的にも20才前後が多いとされる「若者勝手連」、吸収が早い年頃の彼らの成長は目を見張るものがある。それなりの年齢の大人でも理解が難しい政策や税制の問題点や、その解決策なども”その政治家”の公約の詳細説明に沿うものではあるが、概ねを彼ら自身が説く様子も度々見受けられるほどだ。

そして、彼ら「若者勝手連」は、日々の活動の中で徐々にその信頼と期待を得たことで、その輪は全国へと広がっていった。

やがて、”その若者”自らが街頭に立ち、自身の声で訴えを発するまでになった。初めて街頭に立ったと言う”その若者”の姿はまだ拙く、”その政治家”の熱い街頭演説と比べると見劣りはするが、初めてなのだから当然であろう。大切なのは、その意思を示すことである。さらに、行動に移すことでその想いを実現させる可能性が生まれるのだ。彼らは、その一歩をまだ踏み出したに過ぎない。

既存の大きな団体や政党に付き従うのではなく、1つの意思の集合体として存在する「若者勝手連」。今は”その政治家”と政党を応援はしているが、運命共同体ではない。仮に”その政治家”が間違った道へ歩もうとしたならば、彼ら「若者勝手連」は離れ、独自の道を歩み始めるかもしれない。
もし、そのときが来たならば、彼らが間違った方向へ進まないように、彼ら自身でもその危険性を自覚しておいてほしい。その点さえ忘ずにいてくれたならば、彼らの存在そのものが市民の希望の光となる可能性もあるのだ。

現在の彼らは、”その政治家”や政党の関係者とも連絡を取り合い、面識を持っている。さらに、若さ故の柔軟性もあってか、同年代の他党支持者とも友好関係にあるという。彼らがこの先も成長を続け、政党の垣根を越えて手を結ぶことができたなら、その先にある未来がどのようなものなのか、期待せずにはいられない。

そしてもう1点触れておきたいことがある。
彼ら「若者勝手連」が訴えかけている相手は、彼らと同年代から上の大人たちだけではないのだ。彼らより下の年代、つまり中学生・高校生にも向けてメッセージを発している。一見すると関係の無い世代に見えるかもしれないが、そうではない。彼ら「若者勝手連」が数年後か間もなく社会に出る頃、次の世代となるのが、その1つ下の世代なのだ。
この訴えかけはとても大きいと考えられる。自分たちが選挙権を得たとき、そのときにはすでに参加することの意味を知っている。という点において、知る者と知らぬ者の差は歴然である。加えて、自分たちがその大切さを自覚したならば、また次の世代へ伝えてくれることまで期待が持てるだろう。
さらに、現在の中学生・高校生の世代の親はもちろん現在の有権者である。今のこの国を作り、放置している当事者である。中学生・高校生の親の世代へ、間接的に訴えを届かせる可能性も含んでいる。

2021年10月頃になるのではないかと言われる次期衆議院総選挙では、そんな彼らと、彼らが応援する政党が巻き起こす”旋風”がどこまで大きくなっているのか、本当に風は吹くのか、すでに目が離せなくなっている。

彼ら「若者勝手連」とは、今は1つの政党の非公式支持団体であるが、様々な視点から彼らを見ると、ただの支持者たちの集まりではない。彼ら自身に何かを具体的に求めるものではないが、彼らの想い、願い、行いが、この国の未来を紡ぐものと成り得るか。期待を込めて今後も見守っていきたい。

世代の責任、意識の変革

次の世代は着々と育ちつつある。では、今の30代以上の世代はどうなのか。
世代の通称は年齢が高い順に、「団塊の世代」「しらけ世代」「新人類世代」「バブル世代」「団塊ジュニア」「ゆとり世代」と一般的には分類されているようだ。よく耳にするのは「団塊」「バブル」「団塊ジュニア」「ゆとり」の4世代だろう。特に「団塊ジュニア」は、ロスジェネ世代とも呼ばれ、上記の”その政治家”の世代にあたる。
では、この4世代を世代別に簡単にだが見てみよう。

団塊世代(1947~49年生まれ)71才~73才
戦後生まれの1世代目。戦後を支えた世代として日本の功労世代とされている。この世代が社会人となった頃の1970年前後は、高度経済成長の時期であったが、親世代に生活の余裕が無かった家庭や若者たちは、自分で生計を立てることを迫られた。仕事に対する概念が、「生きる手段」「会社から与えられるもの」「指示されるもの」として定着した世代であるが、その反面、「頑張れば報われる」という現象を体現した世代でもある。経済成長が緩やかになった後も上記の概念が変わらず、以降の世代との意識に乖離があると見られる。世代人口もこの世代が現在も一番多く、年金問題の議論にはその多さが常に問題点として浮上する。有権者としても一番多い世代である。

バブル世代(1965~69年生まれ)51才~55才
一番恵まれたと言われるバブル景気を経験した世代。企業の規模拡大に伴う大量採用もあり、大学卒業者の約半数が一部上場企業に就職することができた。当時、若い世代の発想を活かすビジネスも生まれ、活力のある労働力も相まって若者の提案なども多く採用された時代。そのため、自分を優秀だと思い込む勘違いが多いと言われている世代でもある。その反面、「仕事は与えられるのではなく自分でつくるものだ」という意識も生まれた。連れて、家族や生活のために仕事をするという意識が、仕事をすることそのものが目的に変化しはじめた世代である。企業の大量採用の結果、企業内人口が多いため、出世争いが厳しかった世代とされている。

団塊ジュニア / ロスジェネ世代(1970~84年生まれ)36才~50才
団塊世代の次に人口が多いとされる「第二次ベビーブーム(1970~74生まれ)」の世代と、団塊世代の子供の世代(1975~84年生まれ)である。
バブル経済崩壊後の世代。広義的には1970年代生まれを指す。
就職直後、または就職直前から景気が長い後退局面に入り、就職難に直面した「ロストジェネレーション(失われた世代)」と言われるのがこの世代である。「氷河期時代(世代)」とも呼ばれる。就職前に企業の倒産やリストラを目の当たりにし、個人の能力を求められた世代で、「キャリアアップ」という言葉が流行り「プロフェッショナル志向」が強くなった世代である。
しかし、インターネットや携帯電話の普及当初から触れている世代であり、その知識や経験は、関連の経済や開発では中心を担う存在とされている。
企業への忠誠や雇用に対する考え方が大きく変わった世代でもある。

ゆとり世代(1987~2004年生まれ)
2002年~2010年に施行された学習指導要領(週休2日制や授業内容の変更・削除等)で教育を受けた世代。上の世代の影響を受け、地位や収入といったものよりも、自身の充実を重視し始めた世代と言われる。
特に、団塊世代とは相反する志向を持ち、上の世代からは違和感を持たれることも少なくない。自身の信念や信条に忠実な面があり、他人のために仕事をする分野(社会福祉や環境保護など)で活躍する者も多い。
発展したインターネットの世界に触れて育った世代ということもあり、SNSなども使いこなすことに苦はないため、横の繋がりを強く持つことに長ける一方、縦社会の概念には馴染めず、旧態依然とした風潮を持つ企業や団体では活躍できずにいる傾向がある。

上記のように、簡単な説明ではあるが並べて見ると、経済と世代の特色の移り変わりは読み取りやすい。消費税が1989年に3%で導入され、その後、1997年に5%となり、2014年には8%、そして2019年には10%まで上がっていったことも合わせて考慮すると、止まらぬ経済の後退と終わらないデフレの影響を受けるのは、若い世代ほど大きいのだ。世代間の意識の乖離は致し方ないことなのだろう。

2020年04月現在、日本の政権与党を支えるのは有権者の約35%といわれる者たちだ。その中の多くは団塊の世代とされている。そして忘れてはならないのは、資産を一番多く抱えているのもその世代なのである。
そして、景気後退と長引くデブレに連れ、少子化も止まる気配は無い。少子化に至っては、約50年も前からその可能性は指摘されていたという。今すぐ手を付けなければいけない問題以外を先送りし、その都度次世代に押し付けて来たのが今の現状である。

年金制度も、税制も、今現在も急がねばならない新型ウィルス対策でさえ、一番裕福な世代を中心に事を運ばせようとしているのだ。そんな政府を存続させているのが、その保護対象にされている世代なのだから当然と言えば当然である。ならば、その以降の世代はどうか。このままでまともな人生を歩める者がどれ程いるというのか。楽観視できる材料は見当たらない。
賃金は低く、そもそも正規雇用に辿り着くことも難しくなってしまった世代において、他人を思いやる気持ちも薄れ、子供を持つ希望も無くすような世の中で、この先どう生きるかの道しるべが何処にあると言うのだろう。

団塊の世代の人たちは、残酷なようだが、あと数年~十数年で減るとされている。その間、今の若い世代にまだ我慢を強いる世の中が本当に正しい在り方だろうか。今この期に及んで誰の責任だとか、どの世代の責任だとかを問うことが正しいとは思わない。だが、もう問題を先送りにするお国柄は終わりにしなければならない。この先、数十年を生きて未来を創る者たちを苦しめるべきではないのだ。それでは負の連鎖を止めることはできない。

今現在の余裕のある世代、全員とは言わないが、直ちに困る状況に無い人々には、自分たちより下の世代へ手を差し伸べてあげてほしい。
自分たちの後に続く次の世代が絶望する世の中が、上の世代の人々が望んでいる未来ではないはずだ。次の世代が望む未来は、どの世代にも厳しいものではないはずなのだ。もう、これから先は自己保身だけでは周りが壊れいくことに気付くべきだ。そして自分たちの孫や曾孫にあたる世代を、そろそろ守ってあげてはどうか。どの世代でも、人々がそう想い考えるだけで、世の中は変わっていくのだから。

次世代のキミたちへ

今のこの国を支えている世代の大人たちに、キミたちの声が届いているかは正直まだ疑わしいと言わざるを得ない。

だが、私が「若者勝手連」のキミたちの世代に注目したのは、キミたちの秘めた可能性に期待しているからだ。下の世代への訴えかけもそうだが、意味の無いことなど何もないのだ。全ての想いと行動が積み重なり、やがては実を結ぶときがくるだろう。それまではどうか、諦めずに訴え続けてほしい。

頭が凝り固まってしまった大人とは、このままではいけないと分かってはいても、それまでの考えを変えたり、態度を変えたりは簡単にはできないものである。それは保身の為もあるだろうが、人とはそういうものなのだ。長年そうであったものを変えるには、それなりの勇気と決断を必要とする。平和と安寧の中にある者ほどその決断はできない。それを変えさせようとしているのだから簡単にはいかないのは当然だ。

「若者勝手連」の世代のキミたちと比べると、私の年齢は少し上であるが、今この世の中の問題を解決することなく、キミたちを巻き込もうとしていることを私個人としては申し訳なく感じている。と同時に、このまま引き渡してはならないとも考えている。私個人の力など、何もできないに等しく大きなことは言えない。が、私はキミたちの世代を応援することが、実は一番の近道ではないかと思っている。

政治家の言葉は、その支持者には届きやすいが、そうでない者には届き難いのは当然である。”支持者ではない者”には、支持していない対象には興味が無いのだから。では、政治家本人ではなく、その支持者たちの声ならばどうだろう。自分とさして違わぬ一般人が、政治家の言葉を借りた代弁ではなく、自分の言葉で自分の想いを訴えたとき、支持者ではない人々も耳を傾けてくれるのではないだろうか。
そういった意味でも私は、政治家の支持者を増やす切欠をつくるのは、政治家本人ではなく支持者である。と考える。

「若者勝手連」は今、数十人の仲間がいると聞く。全国のまだ参加していない者や予備軍を含めると百人は超えるだろう。そのキミたちが皆自分自身の言葉を持ったならば、1つの訴えが百を超える訴えとなり、もしキミの言葉が届かなくても、キミの隣の者の言葉なら届くことがあるかもしれない。
無理に気負う必要もない。1人が別の1人と繋がり、それを繰り返すことで広がっていけばいいのだ。”その政治家”の言う「緩く繋がっていく」とは、そういうことなのだろうから。

いつか、キミたちの声が上も下も世代を超えて響いたとき、きっと変革は起こるだろう。だから私は、キミたちに期待している。


最後に、かの有名なあの方の言葉を贈りたい。

「この道をゆけばどうなるものか、危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし、踏み出せばその一足が道となり、その一足が道となる。 迷わず行けよ、行けばわかるさ。」
by アントニオ猪木(元参議院議員)


旧態依然と次世代の胎動(終)