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「健康で幸せ」

「健康で幸せ」  園田汐
 
 目が覚めたらまずお湯を沸かす。私の白湯と彼のコーヒーのためのお湯。
 水道水は一度沸かしたぐらいじゃカルキの香りが抜けないから、定期便で届くようにしている天然水を沸かす。
 ケトルじゃなくてヤカンで沸かす。なんとなく、その方が好き。常温の水が温度を上げて姿を変えていくのがより感じられる気がする。
 私から少し遅れてパンツだけ履いた彼がリビングに現れる。毎朝の光景、健康的に盛り上がった胸と肩の筋肉に私は何度でも見惚れてしまう。
「おはよう」
 カーテンを開け放った部屋の眩しさに目を細める彼は、寝起き特有の掠れた声で朝の挨拶を私に発する。
「おはよ」
 彼は私を抱きしめて鼻から深呼吸をする。
 キミのつむじの匂いが好き。
 初めて同じ朝に起きた時、彼はそう言った。健康で幸せな匂いがする、らしい。そう言われた後、一人でこっそりつむじを人差し指で擦って匂いを嗅いでみたけれど、私にはよく分からなかった。人の脂の匂いがするだけだった。
 木製のダイニングテーブルで向かい合って朝食を食べる。ヨーグルトにフルーツを入れたもの。大抵はバナナ、たまにキウイとかイチゴ。バタートースト。それが毎日の朝食。
 彼は自分で至極丁寧に淹れたコーヒーに、ミルクとたっぷりの砂糖を入れて飲む。
 彼の淹れるコーヒーはブラックでもとても美味しい。と言うか、美味しすぎてブラック以外で飲むのが勿体無いぐらいだ。
 丁寧に淹れられた美味しいコーヒーにたっぷりのミルクと砂糖を入れて飲むのが好きなんだ。
 彼は初めて会った日、新宿のバルト9でレイトショーを見た後、珈琲貴族エジンバラでそう言った。それを聞いて私はこの人と一緒にいたいと思ったのだった。好き、と言うより、一緒にいたい、そう思った。
 目の前でトーストにかぶりつく彼を眺める。たっぷりのバターを染み込ませて、たっぷりの蜂蜜をかけたトースト。私にはとてもじゃないけど食べることは出来ない。どう考えても朝からそんなものを食べたら胃もたれをしてしまう。でも、それを食べた後の彼の唇に自分の唇で触れるのが好きだ。私たちの生活にある、たったひとつのイケナイもの、そんな味がする。
 朝ごはんを食べている間、彼はずっと自分の足を私の太ももに乗せている。小学生の頃からの癖らしい。
 お互い在宅で仕事をしている私たちは、朝ごはんを食べると夕方まではお互いのするべきことをする。会話もほとんどしない。私はリビングで仕事をし、彼は書斎で仕事をする。
 先に仕事が終わった方がご飯を作る。お互い時間がかかった日には外食をするか惣菜を買いにでる。
 今日は二人とも忙しい日だった。夜八時、近くのスーパーで惣菜を買った帰り道、川沿いを歩いている。
「まだ夜は寒いね」
 そう言うと、彼は持っていたスーパーの袋を逆の手に持ち替えて、私の左手を彼の右手で握る。
「でも、もう少しで夏になりそう」
 彼は鼻から深く息を吸ってそう言う。彼は私には分からない香りをたくさん知っている。
 夏が来るのは好ましいことだ。彼は夏がよく似合う。汗をかいて湿ったうなじから肩にかけての筋肉は息を呑むほどに綺麗だ。白いTシャツから少しだけ透けて見える彼の肩甲骨に思いを馳せる。
 川から、パシャン、と音がして私の注意は夏からそちらに逸れる。じっと見つめてみるけど、音を立てた何者かを見つけることは出来なかった。
 川面に並んで映っている街灯と月は、私にはどっちがどっちか区別がつかない。
                   了
 

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