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あなたの時間。

わたしにはわたしの時間が必要だ。それはすなわち、わたしの場所ということでもある。わたしのための時間をまるごと享受するためには一定の場所がとても大事だからだ。

家に一人でいるときも、そこではわたしの時間をあまり持てない。もちろんもっと家族構成員の多い家庭に比べたら、ずっとずっと一人の時間を享受しているのだろうけれど。でも、家は何をしてもいいし何もしなくてもいい場所なのに、わたしは家では常に何かをしなければいけないという気がしている。たいていはパソコンの前にいて、それ以外は台所で洗い物をしたり、掃除機をかけたりしている。猫をかまったりトイレの砂を片付けたりするのも意外と時間を取られる。家は、わたしにとってはある部分で働く場所だ。

それでときどきわたしは、目的地なしに歩く。どこかに行くことが目的である代わりに、わたしの時間を確保することが目的の歩きだ。または、カフェに行く。たいていは外出の用事のあいまにカフェに行って隙間の時間を楽しむのだけれど、時々、わざわざ家を出て近所のカフェに行ったりする。
カフェは、店内の騒音の程度や、席の座り心地、光の入り具合、ほどよいおやつがあるか、などの条件から厳選するので、入る場所を決めるまで無駄に時間を費やしてしまうのが難点だけど。

一番わたしの時間を持てるのは、電車やバスの移動時間かもしれない。地下鉄では最近はついイヤホンで音楽を聴いたり、スマホを見たりしてしまって時間が削られてしまい、そういう時間は「わたしの時間」ではないと思う。

バスの方がいい。車窓に目を向けていればどんどん思考が流れ、よけいな考えも去っていく。何の役にも立たないアイデアが、まるで焼きはじめのパンケーキの表面に現れる気泡のように、ふつふつと浮かんでは消えていく。最終的には何の痕も残さずのっぺりと焼き上がるパンケーキ。そういうわたしの時間が、わたしにはとても大事だ。だれにだって大事なはずだ。
 
ところで、あなたの時間はどこにあるのだろう、とふと考えた。会社と家の往復、ときどき居酒屋。家では丸一日同じ姿勢で寝転がっている、あなたの時間は。出勤してから帰宅するまでは二十数年来同じ職場の同僚たちとほぼずっと一緒に過ごしている、あなたの時間は。家にいれば心置きなく一人の時間なのだろうけど、寝転がってテレビを見続けているその時間は、あなたの時間なのだろうか。
 
ある日食事時にあなたは脈絡なく、近ごろの子どもたちの外遊びの話をした。「外でボールを蹴るのはやっぱり男子だな、だから女子はスポーツが苦手なんだな」。私はその話の出どころに興味を持つ前に、ジェンダーの考え方の偏りに気を取られて、つい反論した。
「いや、それってさ、“だから女子はスポーツが苦手”、なのではなくて、男子が優先的に運動場を使えてしまう雰囲気が女子を休み時間の運動から遠ざけるんじゃないの」

たあいもない会話の主張のズレは結局口論に進み、互いに気分悪く口をつぐむ。ことジェンダーに関してはまったく意見が合わず、この手の話題を気を付けなければならない。
ただ、あなたはジェンダー問題の討論をしようと持ち掛けたのではなかったはずだ。わかっていても、話の発端に戻ることもできず、気まずさをごはんと一緒に飲み込んだ。

そのことを思い出したのは、アパートの共用ベランダで煙草を吸っていたときだった。
最近ここで煙草を一日1、2本吸う。ベランダからは、道路を挟んで向こう側に小学校の運動場が見渡せる。ちょうど昼休みなのか、子どもたちが歓声をあげてあちこちで遊んでいる。きゃあきゃあという声がひとかたまりになって響き、いまどきの子どもらも外で遊ぶんだな、などということに妙に感心した。

運動場の端の遊具では低学年らしい女の子や男の子たちがぶら下がって遊んでいる。そして運動場の真ん中では、ボールを蹴って走りまわる、高学年らしい男の子たち。高学年の女の子たちはあまり見えなかった。

あなたはここで毎日、煙草をくゆらせながら子どもたちのようすを見て、何を考えていたのだろう。おそらく特に何かを考えたりせず、目に入る光景をただ焼き付けていたことだろう。流れていくバスの車窓のように。

そうか、ここがあなたの場所で、あなたの時間だったのか。
わたしはそこに立って、息をふーっと吐き出してみる。光景の意味は煙草の煙となって、運動場とベランダの間の空気に溶けていく。