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2021.9.9 語られない世界遺産の裏歴史

今から約4年前の思い出話。  

5月初旬の暖かい風を感じながら、私はその日、長崎の地を訪れていました。  

気温はそれほどでもありませんでしたが、細い道や坂道を歩くとジワジワとシャツが滲んでいったのを覚えています。

なぜ、この地を訪れたのか?  

それは、ここ長崎の地を知らずに、幕末~明治維新、そして日本の近代を語ることはできないからです。 

「グラバー園」
「長崎市亀山社中記念館」
「シーボルト記念館」
「長崎歴史文化博物館」…

日本の近代化の時代を語るには避けては通れない地、長崎。  

どんな新しい発見があるのかと心を踊らせていました。  

しかし、意外なことに…、

実際に現地を訪れた私を襲った最初の感情は、失望でした…。  

そして、最後には怒りの感情までもが込み上げてきたのを覚えています。  

トップの写真のように、きれいな夜景も眺められ、美味しい料理もあるのに、
「なぜ?」
と疑問に思うかもしれません。  

私の感情を黒く染め、心を揺さぶった諸悪の根源…。

この地、長崎には、未だ語られない謎が多すぎたのです…。

グラバー邸の隠し部屋と2人の隠し子

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例えば…『グラバー邸』

私が初めて訪れたのは高校2年の修学旅行の時です。  

当時、高校の先生に、
「グラバーは日本の近代化に貢献して…」云々
と言われたのを覚えています。 

それから約30年近くが経ち、改めて訪れてみると、新たに展示されている場所が増えていました。  

そうです、グラバー邸の屋根裏にある隠し部屋です。  

私が若い頃には、まだ見つかっていない事実でした。  

しかし、残念なことに、それについての説明が何も書かれていないのです。  

・なぜあんなものが存在しているのか?  

・グラバーは何のために隠し部屋を作ったのか?  

・誰を匿ったのか?  

そんな説明書きは一切ありません。  

仮に、誰かを匿っていたとしたら…。
あの隠し部屋は、はしごを上にあげて天井の蓋をきれいにすると、絶対に分からないように作られています。
すなわち、刺客が入ってきても、2階がないのですから、まさかあんな高い天井に隠れているとは思いません。  

一体、グラバーたちはあそこで何をしていたのでしょうか?  

しかし、そんな話はまだまだ序の口です。  

皆さんは、グラバーばかりに注目を集めていますが、“血の通った歴史”はそこにはありません。

実は、グラバーには2人の子供がいました。
1人は奥さんの子。もう1人は自分と関係を持っていた前の遊女から取り上げた子です。

グラバーの2人の子供たちと妻と遊女…。

そして、そこに関わった長崎市と伊藤博文の関係。

子どもたちの代…。

つまり、第二次世界大戦時にこの悲劇の話が始まります…。

しかし、“血の通った歴史”は一言もこのグラバー邸には書かれていませんでした…。

そういった経緯もあり、今回はグラバー邸に焦点を当てて、グラバー一家の少しでも血の通った歴史を書いていこうと思います。

*=*=*=*=*

グラバー邸…。
ここには非常に悲しい歴史があります。

グラバーに関する本は色々と出ていて、グラバーが日本に来た頃は若くてハンサム、商売で成功したお金持ちで、上海のジャーディン・マセソン商会にいました。
所謂、アヘンの卸屋にいました。
そこから長崎へ来て、ジャーディン・マセソン商会の長崎支店長になります。
ただ彼は、中国でアヘン戦争の恐ろしさを見ているので、アヘンには手を出しませんでした。

お金持ちで独身の彼は大酒飲みで、遊郭では有名な男でした。

そして、そこで出会った一人の女性に息子を産ませます。
息子の名は、トーマス・アルバート・グラバー(後の倉場富三郎)。
非常にハンサムな息子でした。

グラバーは、その女性と暫く暮らしていましたが、今度は別の遊女に惚れてしまいます。
その遊女が、後に妻となるツルでした。

遊女と言えば聞こえが良くてロマンチックですが、ツルにとっては、そう簡単な世界ではありませんでした。
ツルは15か16歳のときに武家の山村家に嫁ぎ、娘のセンを産んでいます。
実家は大阪で造船業を営んでいました。
しかし時代は幕末…。
佐幕派か攘夷派かの騒動によって、ツルの嫁ぎ先である豊後(大分県)岡藩の山村家と実家が大喧嘩となり、ツルは娘を残したまま離縁させられます。

しかし、すぐに仕事が見つかるはずもなく、彼女は仕方なく長崎で遊女になりました…。

グラバーはそんなツルを好きになり、結婚します。
なかなか子供はできませんでしたが、約5年後にようやく娘のハナが生まれます。

さて、ここから話が面倒臭くなります。

グラバーが最初の女性に産ませた息子の富三郎、そしてツルとの間に生まれたハナ。
腹違いの兄妹は6歳違いで、それぞれ別々で暮らしていました。

しかし、その後、ツルが子供が産めない身体になったと知ったグラバーは、途端にパニックに陥り、前の遊女から息子の富三郎を取り上げ、グラバー邸に連れて行き、4人で幸せに暮らすこととなります。

富三郎は高校を卒業後、コネで学習院へ入ります。
当時、学習院は皇族や公家、華族もしくはコネがないと入れませんでした。
しかし、その学習院を中退し、アメリカの大学へ行きます。

そして、約6年間アメリカで水産学を学んだ後、長崎へ帰国し、父親の働く関係会社に勤めます。

富三郎の日本にとって大きな貢献は、日本で初めてトロール船を導入したことです。

すなわち、日本で漁獲量が爆発的に増えた漁法です。
当時は、魚を取り過ぎだ!
資源が無くなる!
など非常にバッシングを受けました。

しかし、トロール船の漁業の仕方は日本中に広がっていきました。

富三郎は学問が好きで、日本の近海にいる魚介類を研究して、全34巻の図鑑『日本西部及び南部魚類図譜』を作りました。
その図鑑の中に出ている魚介類の絵を日本の画家たちが描きましたが、その精巧さは、今日でいえばまるでデジタル写真かと思わせるくらい素晴らしいものです。

その後、富三郎は自分と同じく、イギリス商人の娘で日英ハーフのワカと結婚します。

子供はできませんでしたが、長崎の名士となって非常に幸せな暮らしをしていました。

ところが、第二次世界大戦が勃発。
日英の混血だった富三郎は、途端にスパイの嫌疑をかけられます。

当時日本は、グラバー邸から見下ろせる長崎港で、戦艦『武蔵』を建造していました。
建造場所は竹の塀があり、丸見えではなかったのですが、
「毎日見てるんだろっ!」
と特高と憲兵にグラバー邸の周りを見張られる生活を強いられます。

富三郎夫妻がなかなか家を出ない理由から、政府は圧力をかけて、三菱にグラバー邸を買い取り、追い出すよう命令します。

恐らく三菱はグラバー邸を買いたくはなかったでしょう。
三菱創業者の岩崎とがっちりと手を組んだトーマス・グラバーが建てた邸…。
そこには、息子が住んでいる…。
普通なら、そんな邸は買いたくないはずです。

しかし、政府を牛耳った時の軍部な圧力には逆らえず、三菱は渋々邸を買い取ります…。

その後、家を追い出された富三郎は町外れに住むことになり、思うように薬も手に入れられず、妻のワカを病気で亡くします。

そして、終戦が近づいた頃、幸か不幸か町外れに住んでいた彼は、長崎市内に投下された原爆を見ることになります。

終戦を迎え、10日ほど経った8月26日、数年間空き家だったグラバー邸に戻り、富三郎は首吊り自殺をします。その遺産は、全て長崎市の復興にと寄付されました。

後に三菱は、1957年にグラバー邸を長崎市に寄贈します。
それが今、一般公開されているグラバー園です。

しかし残念なことに、富三郎が遺した財産が、長崎市復興のために寄付されたことについては、今のグラバー園には一言も書かれていなかったのです…。

表面で見えるグラバー邸とその中に住んでいたグラバーの家族、その底辺に流れていた思想、人種差別…、そこに都合の良いように運命に翻弄された人たち…。
そういったものを見ないと、私たちは文明文化なんて分からないものです。

自分で言うのもおこがましいですが、私が見て調べる歴史は、血の通ったところを見ています。
歴史に血が通ってないわけはありません。
歴史の流れには人の血、皆さんのご先祖様の血が流れています。
それで私たちが本当のことを知るとドキッ!とするのです。
すなわち、歴史は今の私たちの話とも言えるのです。

真実を追いかける…。
歴史の中で、真実より強いものはありません。
時代は50年、60年・・・100年といった周期で変わっていきます。
解りやすく例えにするなら、ルパン三世やドラえもんの声優の世代交代のように、年を経るごとに役者は変わりますが、どれだけ年を経ようとも真実となる脚本やシナリオはほぼ同じだということです…。

〔編集後記①〕
長崎歴史文化博物館が語らない不都合な真実

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本編ではグラバー邸をメインに書きましたが、それだけではありません。  

他にも、私は『長崎歴史文化博物館』を訪れました。  

この建物は非常に綺麗です。  

私は長崎の歴史全体に大変興味があるので、2階へと上がりながら、
「さあ、何が出てくるかな」
と、非常に楽しみにしていました。  

しかし、きつい言葉を言うようですが…、
「もう二度と見たくない…」  

正直に言えば、
「これ、博物館か?ただの金儲けか?」
と大変失望してしまいました…。

もちろん、理由はグラバー邸と同じです。
肝心なことが一切書かれていないのです。  

博物館には、長崎で行われた貿易における絹や砂糖の話は出てきます。

長崎の歴史文化に関わる古文書や歴史資料など、多数貴重な資料も一同に集まっています。

しかし、表面だけしか話されていないのです。

例えば、中の説明では、
「日本がキリスト教を弾圧していろいろ処刑して…」云々
と…。

それはその通りです。

しかし、その弾圧が行われるまでに、日本がどれだけキリスト教を受け入れたのでしょうか?

当時、キリスト教徒が神社仏閣を次々と焼き払った事実は?

また、キリシタン大名たちが、日本人を奴隷として東南アジアに送るのを容認していた事実は?

当時、特にスペインやポルトガルの商人たちは、日本で独占市場を築き、日本の国益が損なわれていた事実は?

そうした、表面だけでない奥深くの歴史の説明が一切ありません。  

そしてもう1つ、私ががっかりしたのは、長崎なのに日本で爆発的に蔓延した性病の梅毒の話が一つもされていないことです。  

一体、この性病はどこから来たのか?
(どこから来たのかは、きっと皆さんも歴史の教科書で習った有名な人なのでご存知のはずです)

誰が持ち込んだのか?

結核と同じくらい多くの日本人が亡くなられた不治の病について、一切話されていないのです。  

はっきりと言いますが、『疫病とお金』が文明文化の底辺にはあります。  

ですから、私も
「このお金はどこから出てきたのか?」
「誰が金出したのか?」
と時々記事に書きますが、文明文化の底辺に流れる『疫病とお金』のことを語らずして“血の通った歴史”は見えません。  

そういうことが一つも博物館では書かれていないのです…。

〔編集後記②〕
博物館が言わない「出島の真実」

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最後にもう一つ、この博物館では語られない重要な話があるのを知っているでしょうか?

なぜ、出島は出来たと思いますか?

ポルトガルやオランダの貿易をコントロールするため、というのはその通りです。

誰もが教科書で習う『出島』の歴史はそれです。

なぜ出島が作られたのか?
しかし、“本当の歴史”をおそらくほとんどの人が知らされていません。

実は、本当にコントロールしたかったのは『貿易』ではありません。

あれは一体、何をコントロールしたのでしょうか?

外国人でしょうか?
新しい鉄砲でしょうか?
いいえ、そんなものではありません。

当時の徳川幕府が一番怖かった…、一番欲しかったモノをあそこでコントロールしていたのです。

徳川幕府が終わって150年以上も経つというのに、そうした歴史も一切と言えるほど博物館では語られていませんでした…。

教科書で語られていないものを、こういった博物館で語られなければ何も伝わらなくなっていきます…。

表面的に好きなように歴史が作られていくばかりです…。

訪れたグラバー邸や歴史博物館で、私はいろいろと期待していました。

しかし、どこまで丁寧に説明してくれるのだろうかと思っていたら、何の説明もありませんでした。

あれでは、中学や高校に出ている教科書のコピペです。
私たちは、学校で歴史は習います。

でも結局、博物館などを訪れても教科書と同じなのです…。  

ですが、良かったこともあります。  

それは、ここに訪れる前に、明治維新~近代にかけての文献を読んではいましたが、現地を訪れたからこそ新しく分かったことがあったのです。

・なぜ、グラバーと2人の隠し子の秘密を語らなかったのか?
・なぜ、幕府側の軍人であった勝海舟が明治政府の重鎮になれたのか?
・なぜ、三菱はグラバー邸を買ったのか?
等々。
もちろん、疑問はまだまだ尽きませんが。

納得がいかなかったら絶対に何かがおかしいわけですし、そして、話があまりに良く出来すぎていたら、それはもちろん出来すぎているわけです。

すなわち、
「歴史をどう見るか」
というところから、自分のスターティングポイントにして追い掛けることができました。

今回も最後までお読み頂きまして、有り難うございました。

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