2019.8.25 皇紀2600年と宮城遥拝所
アジアで開催される初めてのオリンピックが、1940(昭和15)年に開催されるはずでした。
しかし残念ながら、陸軍からオリンピック反対の声があがってしまい、ヨーロッパの情勢も不安定になり、日本政府は開催中止を決定しました。
そもそも、なぜ日本は1940年にオリンピック開催を目指していたのか?
それは、1940年は日本の紀元である「皇紀2600年」にあたるからです。皇紀とは、神武天皇即位の年を元年と定めた紀元です。ですので、壮大な年にしたかった、というのが大きな理由になります。
皇紀2600年の遺産
「皇紀2600年」と聞くと、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか?
例えば僕なんかは、日本海軍が三菱重工業に対して製造を要請した主力戦闘機の「零戦」(零式艦上戦闘機)が即座に思いつきます。零戦は、「皇紀2600年」の末尾のゼロをとって名付けられた戦闘機です。
またクラシックが好きな方であれば、ドイツを代表する作曲家リヒャルド・シュトラウスの「皇紀2600年奉祝音楽」を挙げる方もいらっしゃると思います。奉祝曲の音源が残っていてCDも発売されていますし、Youtubeでも聴くこともできます。
宮城遥拝所
さて、宮城遙拝所と皇紀2600年にいったい何の関係があるのか?
宮城遙拝所が急速に創られたのは、皇紀2600年になります。宮城遙拝というのは、皇居の方角に向かって敬礼(拝礼)をすること。現存する遙拝所跡の石碑をみると、「紀元二千六百年記念」と彫り込みがされています。
先月、観劇のため東京へ行った際、予定を組み込んで立ち寄った埼玉の諏訪神社に「宮城遥拝所」が残っていて、こんなところに「皇紀2600年」の遺産があったのかと驚きました。ちなみに諏訪神社は全国に約25,000社ほどありますが、総本社は長野県にある諏訪大社です。
宮城遙拝所は、日本国内だけでなく海外にも造られました。当時の日本人からすれば敬礼(拝礼)することは道徳的儀礼のように感じましたが、海外の人の眼からみればどうしても宗教的所作の押しつけに映ります。これは、とても難しい問題なので割愛させて頂きます。
ともあれ、今では忘却された歴史ですが、皆さんの街にも「宮城遙拝所」の跡がひっそりと残っているかもしれません。
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