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読書メモ19「レジリエンスの時代」を読み終えて感じる事 1


1、「個人の独立」について
2、「理性」の位置付け
3、「観念」の射程
4、私は何をするか

1、「個人の独立」について
個人は空間と時間、環境と社会に埋め込まれたもので、「独立した主体」という見方は、西欧近代の偏見に過ぎない。
従って、そこからの権利、義務、制度一切は絶対の正当性を持つものでなく、ひとつの仮構に過ぎない。それらの評価は、機能性に比重が置かれねばならない。
例えば「民主主義」というものも、「独立した個人の主権」なる物の上に在るのでなく、「より良い合意」の為に運用されるべきであり、「ピア政治」も、その一つの試みなのだろう。
責任」という事について、明確な答えは何処にも無い。

2、「理性」の位置付け
理性は人間の最上の能力ではなく、脳機能の補助的一部分に過ぎない。無意識的な生命維持諸機能に付随し、それを補助するものだ。
理性は、その「華やかさ」に惑わされること無く、厳しくその限定性を評価されなければならない。

3、「観念」の射程
例えばデカルトの「我思う、我あり」の有効射程は、300年?。
ジョン・B・ワトソンの「赤ん坊を甘やかすと自律や自立への欲求を損なう」の有効(というか、無効というか)(機能した)射程が30年?。
「確立した」観念は、個人の一生の時間では、なかなか動かし難く、世紀単位では「延命」し難い。

例えば「少子化」「人口減少」は、食い止めるべきものなのか?
地球生態系」から考えると、あるいは「当然」の事なのではないのだろうか。

4、私は何をするか
人は「理性」によって動いているのではない。感性は、どう流れて行くのか。流れに乗りながら、少しだけ舵を操る事は、できるのだろうか。
         光

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