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ホットヨガの最前列にいるおばさんを見て人生はクソゲーだと思ったんだけど

2022年の春、ホットヨガに通いはじめた。
もともとプレーンなヨガを習っていたり、春期キャンペーンで入会費と月会費が数ヶ月分くらい無料だったり、とにかく痩せたかったり、ストレス解消効果を欲していたり、運動不足だったり、家の近くにスタジオがあったり、大学2年生になって大変な授業がちょっと減ったり、とにかくホットヨガ適正&欲求&機運レベルMAXみたいな状態だったから、文字どおり印鑑を握りしめ朝8時台の電車に乗って、前のめりで契約に向かった。

弾ける笑顔で出迎えてくれたインストラクターのお姉さんに声をかけ、いざ契約。柔らかな表情につられて、緊張していたわたしの表情もついついほころぶ。
そんなこんなで無事に契約を終え、るかと思いきやなんとびっくり、ホットヨガ専用のヨガマットやら謎のクリームやらを売りつけられ、想定のプラス1万円くらいかけて契約を終える。そのお姉さんは終始1ミリも曇りのない笑顔で、売りつけているという自覚がないか、ホットヨガによって表情筋の芯までほぐれているかのどちらかだったと思う。もし後者なのであれば、今後の己の成長に期待大である。

ちなみに隣で一緒に入会していた、わたしよりふたまわりくらい細くて真面目そうな黒髪OLのお姉さんは、見事にテキパキと勧誘を断っていて、この無駄なためらいや決断やストレスの堆積物が自分の内ももにくっついてる脂肪のような気がして、なんとも言えない気持ちになる。


そんなこんなでいよいよはじめてのレッスン。
そのホットヨガのスタジオには、入り口から向かって一番奥に鏡があって、鏡の目の前にインストラクターさんのヨガマットが置いてある。レッスンを受ける人間は、インストラクターさんと向かい合わせになって、各々好きな位置にヨガマットを敷く。

わたしが住んでいるところはそこまで都心でもないので、グループレッスンとはいえ、10人くらいでのゆったりとしたレッスンを想像をしていたのだが、その回には体感30人くらいのヨギーニ(ヨガをやる女性のことをこう呼ぶらしい。語感が絶妙すぎてツボにハマり、長いこと愛用している)がいた。レッスン直前にスタジオに駆け込んだ、どう頑張っても締め切り間際にしか行動できないヨギーニ失格人間は、なんとかヨガマットが敷けて、なおかつほかのひとに嫌な顔をされない程度のスペースを探すのに苦労した。

ヨガマットを敷き終えたわたしは、ヨギーニの多さに慄きつつ、ゆっくり左右を見渡す。すぐに、鏡の前、つまり最前列に異様な空気が漂っているのを感じる。ジョジョでいう、「ゴゴゴゴゴ……」である。


そこには、レッスン前なのに既にダウンドッグのポーズ(下記参照)を決めた、いかにも「ヨガ歴13年です」な、黒髪ショートカットで身も心もヘルシーそうなおばさんがいた。わたしには着れないおっぱいだけ(本当におっぱいだけ)を隠す、布最低限タイプのヨガウェアを着ている。

↑これ


呆気に取られてポーッと見ていると、ポーズを終えたおばさんと鏡越しに目が合ってしまう。わたしはさも「前の予定が押していてレッスン開始1分前にギリギリ着いたのでまだ体が硬いんですが……」的な心持ちを装い、両腕を組んで前に伸ばしつつ、慌てて目線を逸らす。

それだけならまだよかったのだが、そのおばさんはレッスンがはじまってからも、インストラクターのお姉さんより絶対にコンマ数秒先に動く(そのホットヨガのレッスンはプログラム制なので、何度も同じプログラムに通えば流れをマスターすることができる)。レッスン中もチラチラ周りを見渡していて、時折目が合ってしまう。集中なんてできたもんじゃない。

この「できますが!!!」の押し付けがましさには強烈な既視感があった。塾や学校のテストのとき、少しはやく問題を解き終わったからといって、誇らしげに「ッタァンッッッ」とシャーペンを置く、まさにアレだ(ちなみにわたしもやってみたことがある上になかなか楽しみを覚えていたタイプのでなにも言えない)。

あの光景をぽわぽわと思い出して、人生はクソゲーだ!!!!!!!!!!と、途方もなく悲しい気持ちになった。だって、あのおばさんの様子を見る限り、今まで自分をさんざん苦しめてきた、できる、できない、うまい、うまくないって、たぶん、あの年までつづくのだ。あのおばさんは、たぶんわたしより2.5倍くらいは生きてるけど、2.5倍かけてもその感じなのだ。だとしたら、人生って、本当にキツい争いじゃないか!?!?!?

競争社会に汚染されきった脳をはたらかせながら、酸素が少し薄く感じるくらいにあたたかいスタジオのなかでゆっくり全身をほぐし、"悦"に浸りはじめたわたしは、深い呼吸とともにさらに思考を深める。

たしかに、人生はクソゲーだ。だけど実は、おばさんではなくて、そのおばさんをそう見てしまうわたし自身がクソゲーをクソたらしめている要因なのではないか? だって、そのおばさんが既に悟りの境地に至っていて、周りが1ミリも見えていない可能性だってある。だとしたらわたしは、そのおばさんをそう捉えてしまう"わたし自身"に悲しくなっているのか? でもでも、もし本当に悟りの境地に至っているなら、そもそも何度も目なんて合わないか? いや、悟りの境地に至った上で、新参ヨギーニの金髪小娘が気になっただけという可能性もあるか……?

どんどんこんがらがってゆく思考とは反比例的に、あたたまりきった身体には静かな爽快感が巡り、自分の心音と呼吸が体内に心地よく響く。上質な空間にとんでもない煩悩を持ち込んで、インド(ヨガ発祥の地)に謝れのひとことである。

レッスン終わりはそれぞれヨガマットを拭いて、自分のタイミングで退出する。そのおばさんは、レッスンが終わるや否や、レッスン中の優雅な動きが夢だったかのような圧倒的スピード感でヨガマットを丸め、ほかのひとを押しのけるように部屋を出ていく。ああ、やっぱり、人生はクソゲーだ、と思う。

だけど、クソゲーをクソゲーたらしめるのは、たぶんあのおばさんではなくて、自分自身の解釈である。あのおばさんはきっと、あのおばさんの世界のなかで心地よく生きている。それが気になってしまうんだったら、わたしの方が悟りの境地に至ればよい話である。可能なのかはわからないけど。

それと、たとえホットヨガにあと12年通って、ホットヨガ歴13年のおばさん(お姉さんでありたいが)になろうが、プログラムの全容を把握しようが、だれも威圧しない、無駄な気を遣うコンパクトなおばさんでいたいと思う。だってその方がきっと、ひとに優しくいられる。


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