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【vol.9】元戸田市議会議員 冨岡節子さん 「人に寄り添い、困難を助け合うことを使命に」〈戸田編①〉

 生命保険の育成所長、戸田市市議会議員、学童保育教室オリーブの立ち上げ―。20歳から埼玉県戸田市に根を張り、さまざまな活動を行ってきた冨岡節子さん。その行動の根底にあるのはひとえに「皆さんに喜んでもらいたい」という思い。ひたむきな努力とポジティブな思考で、覚悟を持って仕事に取り組み、母・妻としての人生と両立させてきた。常に独自の道を創造し続ける冨岡さんに、市議時代の功績、学童立ち上げ時の裏話などをうかがった。

ママたちが安らげる場所を目指して

 現在、中町教室・東小前教室・美女木教室・新曽教室の4つの学童教室オリーブを運営するNPO法人オリーブアゴラは、2011年の立ち上げから娘の聡子さんが代表を務めている。「学童教室オリーブ最初の教室を始めた時、入り口にカフェを併設したんです。核家族で頑張っているお母さんが、仕事後に我が子の声を聞きながらちょっとお茶やお酒を飲んでひと休みしてもいいんじゃないかなって思って」

 市役所からは苦言を呈されることもあったが、「利益を追求するのではなく、お母さんが安心して子供を預けられて、元気に働ける環境をつくるお手伝いがしたい」という思いを通した。家庭の中の太陽である母親が明るく楽しんでいれば、子供も曲がらずに、旦那さんも元気でいられる。「ママがどこかで甘えることができる場所を提供したかったんです」

 娘・聡子さん以外の当初のスタッフは、同じマンションに住む友人4人。「私の思いを皆さんに理解してもらった上で、旦那さんにもお願いに行って、理事になってもらった方もいます」。子供たちのおやつをつくってくれているのは近所に住むピアノの先生。友人たちは「私がいろいろなこと始めるから、目を合わすと巻き込まれる!って思うみたい(笑)」

「相互扶助」の精神で乗り切った育児

 30代前半で第一子を出産後、営業で訪ねてくる保険会社数社のセールスレディと会話を交わす機会が多くなった。母親と同じ東北弁で話す第一生命の営業に親近感を覚え、誘われた研修に参加したことをきっかけに第一生命に入社。生命保険の営業をスタートする。法人契約でいくつも結果を出し、入社して僅か2年3カ月で育成所長に就任した。

「常に下に14〜15人の女性がいる女社会の長。生保の営業は大変と言われるけれど、私に言わせればサボるから大変なのだと。名の通った大手生保の商品は実際に良いものばかり。ただし、2万円の保険を勧めるにしても、担当者が自分の利益を追求したものなのか、本当にお客様の立場に立ったものなのか…どちらに重点を置いた組み合わせかで内容は変わってきますよね」

 保険というのは人が喜ぶためにプランニングするもの。警察と保険屋は似ていると考える。交通ルールなどに厳しい警察は厳格で怖いイメージもあるけれど、何か困った時に一番に助けてもらえる存在。生命保険員は普段は煩わしくて目も合わせたくないけれど、病気になったり、怪我をしたときに一番に頼りにする。「とくに生保は、入る時に細かい手続きがあるけれど、書類が揃っていれば2〜3日でお金は出ますから」

 人として人に寄り添う気持ちと、研修時に感銘を受けた、明治期から大正期に生命保険業界の基礎を築いた第一生命保険創業者・矢野恒太の「相互扶助」の精神を胸に、常に志を持って16年間必死に勤め上げた。二児を育てながらの重職。帰宅は毎日終電近くのため、二重保育を余儀なくされた。

 それを見かねた園長先生からの提案で、先生から紹介されたママさんに月2万円ずつ払い、夜のお迎えと晩ご飯までをお願いすることに。「私は息子が初めて歩いたのも、初めてトイレでウンチをしたのも見ていないんです。でもそういう手助けをしてくれた方がいたからこそ、私は目一杯働けました」


長年のPTAを終え市議の道へ

 以降は、当時住んでいた美女木(戸田市)のマンション前の駐車場に愛車がないと、誰かが鍵をあけて(鍵は友達数人に預け)、ご飯を運んでくれたり…。「想像を絶するふざけた子育てをしていましたが、二人とも素直に育ってくれたのは美女木でお世話になったママたちのお陰です」

 バス停でおばあさんや子供をおぶったお母さんを見かけると、「風邪ひいちゃうから、バス待つなら蕨までなら送っていくよ?」と車からよく声をかける。その代わりか、娘がしょんぼりと元気なく歩いていたら、「娘さん、大丈夫?」と第一生命に電話がかかってくることもあった。「仕事を中抜けして、娘にファミレスでパフェを食べさせることもありました」

 そんなハードワークの中で、二児の保育園の役員、小・中学、高校のPTAを21年間続けてきた。その経験を買われ、戸田市の有力者から市議会議員に誘われる。

「もともと孤独なおばあさんや一人で子育てを頑張るお母さんを助けられたらと、地域ボランティアの立ち上げを考えていました。市民の方の意見を吸い上げて皆さんを動きやすくするために、主婦の代表としてチャレンジしてみることにしました」

 2009年、戸田市市議会議員(民主党公認)で初当選を果たした。戸田市に幅広くいる友人・知人を集め、生活をしている中での問題点を話し合い、議会に提案することを続けた。PTA時代につながりのあった戸田市の企業代表者との意見交換も貴重な機会となった。


「人の喜ぶ顔が見たい」、それがすべて

 東日本大震災があった時、石巻の様子をテレビで見て、「なんとかしなくては!」と現地へ向かった。被災地の集まり場所や、避難所をいくつか紹介してもらい、届けものをすることに。議員の身でやると「売名行為」とも言われかねなかったため、『いま必要なものを届ける会』というのをつくった。

「市内の一角に社長さんたちの名刺を貼り付け、『戸田市の有志の会社の社長さんたちの応援による活動』で『被災地の石巻でいま必要なものは●●●』です、と掲示すると、それを見た中町・下前・喜沢の方々が決まった場所に入れておいてくれるんです」。それを現地で手渡しし、その様子の写真を貼って報告。自分の届けたものがどんな人の手に渡っているのかがわかるという仕組みだ。その時の石巻の状況も伝えることができた。

 お店を再開したいという人がいれば、「箸置きを40個」「15cmの小皿を50枚」を集めるなど「寄せ集めとも言えますが、それくらい切羽詰まった状況でした。石巻の街なかにある旅館では『バスタオルが欲しい』ということで集め、さまざまなブランドのバスタオルを揃えて営業を行っていたほど」
 当時、石巻で知り合った魚屋さんから、現在も週に一回、新鮮な魚を発送してもらい、「学童オリーブでお仕事帰りのお母さんたちに販売もしています。新鮮で美味しいと大好評なんです」

「人の喜んでいる顔が見たい」、その思いは公私を超えたどの活動にも通じている。また、いずれの活動にも多くの人が関わり、仲間になって一緒にやってもらうことこそが大切なこと。

「みんな違う親に育てられているから、当然ものを見る角度はさまざま。でも、『こっちから見た方がいいこともない?』という感じでこちらのペースに持っていくのも得意かな(笑)」
 父親から深い愛情を注がれてきた。それが持ち前の自己肯定力の強さにつながっている。


【PROFILE】
冨岡節子(とみおか せつこ) 1955年、東京都文京区生まれ。4歳から板橋区蓮根で育った。一面麦畑だった家の周りにマンションが建設されることになったのを機に、父親の会社があった戸田市に20歳で転居。以来、戸田市在住。1987年第一生命保険株式会社入社。2009年戸田市議会議員初当選。2011年戸田市学童教室オリーブを立ち上げる。

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