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アヴァンギャルドな元ベルギー王女   マリー・アントワネット・オーセナック・ド・ブロイの奏でる嫋嫋たるショパンの一部始終

マリー・アントワネット・オーセナック・ド・ブロイ王女(Princess Marie-Antoinette Aussenac de Broglie, 20 July 1883 - 31 October 1971)という、ポルトガルの貴族出身のピアニストがいた。ジャック・ド・ブロイ王子と結婚したことによって、1933年に離婚するまでのおよそ7年の結婚の間、王女となった。

オーセナック・ド・ブロイは、出生地ポルトガルでフランツ・リストの高弟であるホセ・ヴィアナ・ダ・モッタ(José Vianna da Motta, 1868-1948)に学び、パリで本格的な演奏活動を始めるとサン=サーンスヴァンサン・ダンディフォーレなど、錚々たる音楽家から賛辞を寄せられた。この若い時期のグラズーノフやラフマニノフなどのサロン風小品を演奏した記録がピアノロールに残されているが、あくまでティピカルな貴族階級の上品なピアニストだった。しかし、ここからの転身ぶりがものすごい。

サムネイルになっている不思議な写真を見て欲しい。この原初SF的な電子楽器は"La Croix Sonore"というフランス版のテルミンやオンド・マルトノのようなもので、あの独特な鼻にかかったノコギリ波とポルタメントが特徴のシンセサイザーの祖先だ。ロシアのアヴァンギャルドな作曲家ニコライ・オブーホフの作品を作曲者とともに実演した仏パテ社の映像から引用したのがこの写真である。このマントを纏った奇妙な装いは、同じく電子楽器演奏にまで活動を拡げたレシェティツキの弟子マリー・ハロック=グリーンウォルト(Mary Hallock Greenewalt , 1871-1950)と酷似している。(どちらも間接的にスクリャービンからの触発があるのはとても興味深い)
このLa Croix Sonore演奏のレコードはパテ社の78rpm盤に残されているのと、LP時代になってからも少し残されている。


Nikolai Borisovich Obukhov (22 April 1892 – 13 June 1954)

さて、本題のショパン演奏は1950年代後半に録音されたもの。少々エキセントリックなキャリアを経たのちにたどり着いたピアニストの奏でるショパン、これはとても興味をそそられる。しかし、このLPレコードはプライヴェートプレスで、市場に出回った枚数もとても少なく、まさに知る人ぞ知るレコード。長年探し回ったあげく、ようやく近年になって入手が叶った待望の一枚だった。

オーセナック・ド・ブロイのショパンは、とても古いフランス派のピアニズムで演奏されていた。LP冒頭の三曲のエチュード(Op.25-1, 10-2, 10-7)は、ショパンが在籍した三重奏のピアノを引き継いだフランシス・プランテ(Francis Planté, 1839 – 1934)の演奏を真っ先に思い出す。プランテの有名な78rpm録音(仏Columbia, rec.1928)にはOp.25-1とOp.10-7が含まれているが、これと聴き比べてみるとテンポ感やアゴーギグなどが底通していることが判る。
さらに、プランテの弟子であるアンリ・エトラン(Henri Etlin, 1886-1951)のレコードもそれを裏付けている。エトランはエチュードからの抜粋(未発売78rpm録音)と「英雄ポロネーズ」などのショパン演奏を残している。エチュードは完全にプランテの影響下にあり、「英雄ポロネーズ」はショパン伝統の継承者であるヴィクトル・ジル(Victor Gille, 1884-1964)やポーランドのミッシャ・レヴィツキ(Mischa Levitzki, 1898-1941)の典雅な解釈と共通しており、オーセナック・ド・ブロイはこの流れを汲む演奏を行なっている。

今日の私たちが耳慣れているショパンとは隔世の感があるが、プランテの演奏はショパンの時代のショパンである。プランテは、ショパンのピアノ実演を聴いた唯一のピアニストの演奏ということで、「失われた世界」を埋める重要なピースとなっている。作曲家の意思を尊重することがピアニストの命題であると考えるならば、楽譜を神聖視する以前に、こういったプランテやショパン伝統を継承した演奏にまず耳を傾けた方がより多くの実りがある。

オーセナック・ド・ブロイのレコードにはショパンの傑作である「夜想曲第13番 ハ短調 op.48-1」が収録されている。多くの19世紀生まれのピアニストたちがレコードとピアノロールを残しているが、オーセナック・ド・ブロイの演奏は、レオニード・クロイツァーの78rpm録音、レオ・シロタの放送録音などと共に、非凡な美を聴くものたちに与えてくれる稀有な演奏である。
この夜想曲は、中間部のアルペジョの扱い方、再現部前のピークの部分にピアニストのセンスが現れる。オーセナック・ド・ブロイは、中間部のアルペジョは連綿とした美しさが波のように紡ぎ出され、再現部前のピークはきちんと抑制されていてこの音楽が夜のものであることを決して忘れない高貴な演奏である。中間部の後に続く最も感動的な再現部は、クロイツァーやシロタのような人生のフラッシュバックを感情を丹念に積み重ねていくタイプではなく、むしろ躊躇いながら進んでいく。それは、コーダ前の溢れ出る情感のために準備された和音ではなく、嫋やかで不思議な感覚の刹那的な美を感じさせる一瞬を生み出して消えていく。このニュアンスは他では体験したことがない。

オーセナック・ド・ブロイ王女のショパンから、オブーホフのスペシャリストとしての痕跡は見いだせない。その代わりに、失われた19世紀のフレンチ・ピアニズム、ショパン時代に直結する美しい演奏が甦ってきた。
こよなく美しいショパンを愉しめる珠玉の一枚である。


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