旧約聖書3「サムエル記」

さて、「士師記」に次ぐ「サムエル記」です。

サムエルとは、最後の史師の名前です。この「サムエル記」から、イスラエルはいよいよ王政に移っていきます。

イスラエルで最初に王になったのは、サウルという男でした。が、彼が戦争のとき戦利品に手をつけたことから、ヤハウェ(神)と史師サムエルはマジギレ。
ヤハウェはサウルを王にしたことを大後悔しました(上巻15章)。

ちなみに、神はあまり後悔しません。これは珍しい展開です。
聖書の中で、神が後悔したエピソードがあるのは2回だけ。1つはこのとき。もう1つは、ノアの箱舟のお話で、「人間なんか作らなきゃよかった!」と後悔して、例の大洪水を起こしました。
なので、サウル王はこの時点でかなりピンチと言えます。

そんなサウル王の部下に、見た目のかなりいい男、ダビデがいました。
史師サムエルは、神の指示に従って、ダビデの頭に油を注ぎました。
すると、サウル王が悪霊に苛まれるようになります。

あるとき、ダビデは敵の巨人ゴリアテを石投げ器で倒して、国中で大人気になりました(これが有名なダビデと巨人ゴリアテのお話)。
サウル王は嫉妬し、ダビデを殺そうとしますが、王の息子ヨナタンはダビデに深い友情を感じていたため、ダビデを逃がします。
サムエル記は、サウル王の嫉妬と憎悪、ヨナタン王子の友情と愛が、とくに見どころです。

上巻ラストで、ペリシテとの戦争が起こります。このとき、サウル王もヨナタン王子も戦死してしまいました。あぁ、何もかも恩讐の彼方に……。

そして下巻の最初で、ダビデが2人の死を悼んで歌います。そして、ヨナタン王子の足の悪い息子を探して保護し、彼の友情に報いました。

いよいよ、ダビデがイスラエルの王になりました。
そのために、サウル前王の娘メラヴが、ダビデと結婚しました。ちなみに彼女は、もともとの最初は、父からダビデと結婚しろと言われていたのに、状況が変わって別の人のところに嫁がせられた過去があり、そしていま、ダビデと再婚して、と苦労し続けたドラマがあります。

ダビデは、自分の属するユダ族の町ヘブロンではなく、12の部族から同じ距離があるエルサレムを首都に選びました。この選択は賢明でした。そして〝契約の箱〟を運びこみ、「箱があるからここが我々の首都ですよ」とアピールしました。
そのため、今でも、エルサレムこそユダヤ人の古里だと信じられています。

神は、ダビデの家は永遠に続くと約束しました。しかし、なんと、そうはならなかったのです(詩篇89)。
その後、ダビデ家では人間臭いスキャンダルが続いてしまいました。
まずダビデ王が、人妻バトシェバに手をつけ、その夫を戦場でわざと死なせました。
長男アムノン王子が、腹違いの妹タマルをレイプしました。さらに、愛が憎悪を変わり、タマルを追放しました。
そして、タマルと同腹の弟、アブサロム王子が、憤怒に燃えて兄アムノン王子を殺します。さらに父に反旗を翻し、反乱を起こします。が、なんと、馬に乗っているとき木に引っかかり、急に死んでしまいました。
ダビデ王は驚き、「アブサロム、アブサロム!」と息子の死を嘆きました。
(フォークナーの名作『アブサロム、アブサロム!』の題名はここからきています)

こうして、アムノン王子もアブサロム王子もいなくなってしまった。じゃ、ダビデ王の後を継ぐのは?
その下にアドニア王子と、例の人妻バトシェバが生んだソロモン王子もいますが……?
この後のお話は「列王記」に続いていきます。

ちなみに、〝頭に油を注ぐ〟ってなんでしょう?
ヘブライ語で〝マーシャッハ〟。注がれた人は〝マシアフ〟。これが〝メシア〟の語源で、救世主と訳されています。
もともとは王という意味で使われていましたが、この後の世で、ダビデ王朝が失われてからは、〝これから現れるはずの理想の王〟〝失われたが、目に見えない形で続いている我らのダビデ王朝の真の王〟という意味になっていきました。それが、救世主という概念になりました。
キリスト教では、続く新約聖書で、預言者として現れたキリストこそメシアだとしています。イエスってのはファーストネームじゃありません。「イエス・キリスト」とは、〝キリストこそ救世主〟という信仰告白の言葉です。
一方、旧約聖書から分かれたユダヤ教のほうは、「ないわー。ローマに負けてはりつけになった男がメシアとか、神への冒涜だわー」と考えています。
こうして、1つの旧約聖書から、キリスト教(新約聖書)とユダヤ教に道がわかれていったわけですね。

あと、若き日のダビデとヨナタン王子の友情といえば、ですが。旧約聖書には友情というものはあまり出てきません。ここ以外だと、「コヘレドの言葉」に〝1人より2人がいいね〟と書いてあるぐらいですねぇ。
ヘブライ語で〝ゥレア〟。この言葉は聖書の中で、文脈によって〝友人〟と訳されたり〝隣人〟と訳されたりします。
〝汝の隣人を愛せよ〟〝隣人愛〟とかの隣人も、近所の人って意味じゃないんですね。

しかし、この言葉の解釈には、不幸な時代もありました。〝同胞〟と限定解釈し、敵を憎み、宗教によって戦争を肯定した時代です。

聖書にはさまざまなお話が出てきますが、いずれもアレゴリー(寓話、教訓話)ではありません。
アレゴリーってのは、たとえばイソップ寓話とかの、あれです。「狐が鶴に意地悪したら、自分も意地悪されました→人をいじめると自分もいじめられるからやめましょう」みたいなののこと。
対して、パラブル(例え話)は、この世の問題を明らかにし、根源的な問いを突きつけるものです(あぁ、文学か)。
聖書は、総じて後者のはずなんですが、教会で牧師さんが説教するときは、イソップ寓話みたいになりがちで、ちょっと違うかなぁと思いますね。

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