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P.9|行間の風景: 1. 「砂山の鯨」

「行間の風景」を旅する

宮城県石巻市、牡鹿半島の先端にある鮎川浜は鯨の町として知られる。長年鮎川浜で暮らしてきた女性は、「鯨は陸(オカ)から見てもいねぇんだもん」と言った。と。彼女の夫は捕鯨船の銛打ちだった。捕鯨船は一度漁に出ると一週間は戻ってこなかったそうだ。沖のずっと向こう、どこまで行ったかわからない、と。

鮎川浜の人たちと鯨の関わりはさまざまだ。海を泳ぐ鯨を見たことはないけれど、鯨料理が得意な人。鯨の歯の加工の仕事を継いできた人。捕鯨船乗りや鯨の解体士も。

鯨という巨大な生き物について、多くの人は部分しか知らないのかもしれない、と思うことがある。鯨の話を尋ねて歩くことは、パズルのピースを集めていくようだ。一見無関係なピースも、ゆるやかな鯨の輪郭線を手がかりにするうち、思いがけない位置にぴったりおさまる瞬間がある。

ある土地で「忘れられてしまった」ことが、書庫の片隅の本の一冊に残されていることもあれば、遠くの誰かが覚えていることもある。言葉や記憶の断片を集めてつなぎ合わせる時、失われた風景のかたちを再び描くこともできるのかもしれない。

行間に埋もれた風景を、編みなおす旅をはじめる。

「砂山の鯨」

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江戸時代からイワシ漁場として栄えた北海道・苫小牧の沿岸部。太平洋をゆるやかになぞるような弧を描く浜が「樽前浜」と呼ばれた時代、明治32年から昭和のはじめまで「マルモ漁場」があった。イワシの不漁や時代の変化により終わったこの漁場の、かつての様子を知る二人の人物の語りに、浜を見守るように祭られていた鯨の骨が登場する。

一人目は、マルモ漁場の創始者佐藤与吉氏の長女で、父の死後漁場を継いだ佐藤トワさん(明治27年生まれ)。かつてマルモ漁場は現在の苫小牧港近くにあり、イワシ漁の最盛期には「海の色が変わるほどの群れ」となったイワシが押し寄せたという。広い砂浜だったという当時の風景を、佐藤トワさんはこう語る。

 「川から海までは砂浜で、トドクサがたくさんと生えて、ハマボウフウが一面にありましたの。
 ハマナスもいっぱい。砂が山になったところにはお稲荷さんと恵比寿さんが祀ってあって、恵比寿さんの建ててあるところなんか、プーンとハマナスの香りが臭ってきました。秋になれば、大きな手籠にいっぱいのハマナスをもぎにいくんです。赤く熟していて、甘味があっておいしいの。
 砂山の恵比寿さんはクジラの胴の骨の中に「恵比寿神社」と書いて祭ってありました。
クジラは縁起がいいんです。クジラが沖でシューッと潮を吹いたり泳いだりすると、イワシはおっかながって岸へ寄ってくるんです。それを網で獲ったんです。だから、恵比寿神社を拝んで商売したの。」
(佐藤トワ、苫郷文研まめほん第2期第1号「苫小牧村字川尻マルモ漁場〜扇ヶ浦にソーラン節が聞こえる〜」1990(平成2)年11月30日発行、苫小牧郷土文化研究会より)

二人目は、父が漁場の帳場につとめていたという、川辺己之吉さん(明治29年生まれ)。小船・大船を操るイワシ漁の手順があざやかに記された最後に、船が迎える最期とともに鯨の骨が登場する。

 「樽前浜で鰯をとるため網を積んで沖に出る船は大船と言って、石倉及び蛯谷村での造りでそれを皆さんがた真似て造った様です。又船の古物は丁度、古桶のようなものでよく他に利用することのできるものです。この船の廃船となったとき、先にある『みよし』だけを漁業の神社、稲荷神社等に流れよつた大きな鯨の大骨と向い合つて、両側に祭られたのを方々で見たこともありましたが、今は跡もないと思います。」 
( 川辺己之吉筆、整理:近江謙三「研究ノート 古老の記憶-明治の苫小牧漁業の記録」1971年12月、苫小牧郷土文化研究会より)

この記録に樽前浜のイワシ漁で使われた大船の図も載っており、「樽前浜でイワシ漁のために茅部郡・砂原村・石倉村・蛯谷村に岩手県から来た方が発案したもの」と解説がある。鯨の大骨と向かい合わせに祭られていたという「みよし」は船の船首にあたる部分で、突端には保護のためだろう、銅版が被せられ、付け根のあたりに「海神を祭る所」がある。

佐藤トワさんの長男・光一氏が昭和初期に撮影した写真では、砂山の上の「稲荷」と「恵比寿」の小さな社は双子のように隣り合わせに並んでいる。佐藤トワさんの語った「胴の骨」と、川辺己之吉さんの語った「大骨」は、同じものだったのかもしれない。二人がそれぞれに見ていた、かつてのイワシ漁場の賑わいを思い出すとき、浜を見守るように佇む印象的なものとして、覚えられていたのではないだろうか。

「骨を読み解く」

北海道南部の日本海側では、丘の上や人家の近くに鯨の骨が立てられている場所や、鯨の骨が安置されている寺院がある。かつては鯨の骨が立っていて、現在は無くなってしまったという場所もあるという。そうした骨は主に下顎骨か頭骨で、海辺に漂着した寄り鯨の骨と伝えられるものが多く、「海の神様」として信仰の対象となってきた骨もある。佐藤トワさんが「クジラは縁起がいい」と語ったように、ニシン漁場やイワシ漁場では、鯨をイワシやニシンを連れてくる存在と考えたようだ。また、広く日本各地の海辺の土地で、寄り鯨そのものが「エビス」として信仰されてきた。[参考 3]

北海道小樽市では、今も鯨の骨が置かれている寺がある。

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(上 2点)小樽市・新正寺の鯨骨。
ヒゲクジラの下顎骨だという。[参考 4]

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(上)小樽市・正林寺の鯨骨。
下顎骨。お供え物をする人もいたという。[参考 4]

樽前浜の砂山で祀られていた骨は、北海道南部の日本海側で見られるような鯨の下顎骨だっただろうか。川辺己之吉さんの語った「大骨」という言葉からは、3-4mにもなる鯨の下顎骨も想像できる。佐藤トワさんの語った「胴の骨」という言葉は、下顎骨と同じように弧状をした、肋骨のことだったのではとも想像できる。

けれど「大骨」も「胴の骨」も、今はもう跡形もない。その言葉が示すものを実際に見ていた人たちと、その言葉から広がる風景を想像する私は、全く異なるものを見ているのかもしれない。「大骨」「胴の骨」は、鯨のどの部分であったのか。そこにあったはずの風景のかたちを探ってみる。

北海道南部の日本海側で見られるような、集落や寺院に立てられたり置かれている鯨骨。建てられた意図は異なるものの、その形は「鯨骨鳥居」を連想させる。主に捕鯨が行われてきた土地で、鯨の下顎骨や肋骨を対にして、神社の鳥居として立てたものだ。

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(上)和歌山県太地町・恵比寿神社の鯨骨鳥居(2017年頃)。現在は新しい顎骨の鳥居に代替わりしている。

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(上)宮城県南三陸町石浜・飯綱神社の鳥居。本物の鯨骨は老朽化のため保管され、現在はFRP製のイミテーションが建てられている。(2018年頃)

「鯨骨鳥居」のルーツとして、近代捕鯨とともにノルウェーから日本に持ち込まれた「鯨骨門」の影響を探った宇仁義和氏の「『鯨骨鳥居』は西欧の鯨骨門から転化した」(『日本セトロジー研究』、2019年 29 号 p. 15-20)に、「大骨」「胴骨」が示すものの手がかりがある。

1985年に太地町の恵比寿神社に鯨骨鳥居が建てられた際、着想のもとには、江戸時代の浮世草子作者・井原西鶴(1642-1693)が1688(貞享5)年に刊行した小説『日本永代蔵』第2巻「天狗は家名の風車」があったという。「天狗は家名の風車」では、現在の太地である紀路大湊、泰地の「鯨恵比寿の宮」の鳥居に鯨の〈胴骨〉が立てられ、3丈(約9m)ばかりの高さがあったと書かれている。胴骨とは、何のことだったのか。

宇仁氏によると、江戸から近世までに描かれた鯨の解剖図では下顎骨は「ハシノ骨」、椎骨(背骨)は「大骨」または「背骨」と書かれている。こうした時代の解剖図などに「胴骨」という表記は見られないようだが、近代捕鯨の鯨の解剖作業の現場で用いられた図(共同捕鯨時代の第三日新丸製造事業部が作成したもの)が、1989年に収集されており、背骨は「胴骨」と記されている。「大骨」「胴骨」という言葉は、捕鯨を行ってきた土地と人々の間で使われてきた、椎骨を表す言葉だと考えられる。[参考5]

川辺己之吉さんが語った「大骨」、佐藤トワさんが語った「胴の骨(=胴骨)」は、椎骨のことだったのだろうか。苫小牧に近い場所では、1912(明治45/大正元)年、絵鞆村(現在の室蘭)に東洋捕鯨の捕鯨基地が設置された。絵鞆村で捕鯨に携わった人、他の捕鯨拠点との間を行き来した人たちが、「大骨」や「胴骨」という言葉で鯨の椎骨を語り、樽前浜でも鯨の骨を同様に呼んだかもしれない。

樽前浜の砂山に祀られていた鯨の骨が、椎骨だったと考えると、記録に残された言葉は、違う風景を見せはじめる。川辺己之吉さんの「…船の廃船となったとき、先にある「みよし」だけを漁業の神社、稲荷神社等に流れよつた大きな鯨の大骨と向い合つて、両側に祭られたのを方々で見たこともありました…」という語りの「方々で」という表現も、浜の「あちこちに骨があった」様子を思わせる。一頭の鯨に一対しかない下顎骨よりも、一頭の鯨に数十個も連なる椎骨をイメージする。

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「鯨寄る、浜から浜へ」

樽前浜の砂山に祀られていた鯨の骨が、北海道南部の日本海側で寺院などに見られるような下顎骨や頭骨とは異なり、椎骨(背骨)だったと考えはじめると、そこから想起される風景は太平洋を伝い、岩手県の沿岸部に結びついていく。

室蘭八幡宮では、真偽は不明とされているものの、神社の縁起にかかわるものとして、鯨の椎骨が保管されているという。この神社は、1874(明治7)年に漂着した鯨を売ったお金で建てられたことから「鯨八幡」とも呼ばれていたという。

太平洋を伝い南下し、岩手県種市町にも鯨にまつわる話がある。川島秀一氏の『ものと人間の文化史 109・漁撈伝承』[参考 6]によると、種市町では鯨を「エビス様」と呼び豊漁の神として崇め、漁師の家の玄関や入り口に鯨の骨を飾っておくこともあったという。岩手県から青森県の太平洋沿いでは、寄り鯨を活用した話、信仰してきたという話も伝えられている。1818(文政元)年に種市の八木から青森県八戸市の白浜まで118頭もの鯨が漂着したこともあった。鯨がもたらされたことへの感謝を捧げるため建てられた「鯨州神社」も現存する。また、岩手県宮古市の宮古湾では、1701(元禄14)年に139頭もの鯨が押し寄せ、宮古湾沿いの複数の神社で骨が祭られたという。そのひとつが赤前御前堂で、2011年の東日本大震災の津波では、鯨の骨も流されたものの、その後見つかり再建された神社に祭られた。その骨の様子の写真や、一時期この骨を預かった人の話によると、祭られている骨は椎骨であるようだ。[参考7]

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(上)鯨州神社にて(2020年)

赤前御前堂(岩手県)、室蘭八幡宮、そしてかつて苫小牧・樽前浜にあった稲荷神社と恵比寿神社。これらの場所で椎骨が祭られたとすると、誰かが椎骨を大切な骨として伝えたためなのか、偶然椎骨が見つかり選ばれたのか、持ち運びやすいなど理由があったのか。川辺己之吉さんの記録には、「樽前浜のイワシ漁で用いた大船は岩手県から来た方が発案したもの」ともある。大船の作り方とともに、鯨の骨を祭る作法も、岩手県から伝えられたかもしれない。

なぜ椎骨だったのか——その理由を知ることはもう難しいかもしれないけれど、太平洋沿いのそれぞれ鯨の寄る浜で、同じような骨を選び祭った人たちは、どこか重なりあうイメージで、日々触れる風景を見ていたのではないだろうか。

ある土地で出会う風景が、他の土地への入り口であると感じられることがある。鯨は海が結びつける世界の入り口にいて、遠く離れた土地と土地に、同じような風景を作り出すことがある。遠く離れた土地の人たちが鯨に共通する何かを見出しているようでもあり、海原を回遊した鯨によって、人があるイメージを見せられているようにも思えてくる。

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【予告】「行間の風景」、次回は鯨の骨(おそらく椎骨)と対になるように祀られていた、イワシ漁の船の「みよし」の意味を探る思考の旅へ。

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《参考資料等》
[参考 1] 佐藤トワ、苫郷文研まめほん第2期第1号「苫小牧村字川尻マルモ漁場〜扇ヶ浦にソーラン節が聞こえる〜」1990(平成2)年11月30日発行、苫小牧郷土文化研究会
[参考 2] 川辺己之吉筆、整理:近江謙三「研究ノート 古老の記憶-明治の苫小牧漁業の記録」1971年12月発行、苫小牧郷土文化研究会
[参考 3] 北海道開拓記念館、第63回特別展「鯨」(図録)、2007年7月20日発行
[参考 4] 水島未記「北海道南部に見られる鯨骨製記念物(3)」『北海道開拓記念館調査報告』第43号 2004年3月 pp. 39-54
[参考5] 宇仁義和「『鯨骨鳥居』は西欧の鯨骨門から転化した」『日本セトロジー研究』2019年 29 号 pp. 15-20
[参考6] 川島秀一『ものと人間の文化史 109・漁撈伝承』法政大学出版局、2003年1月20日初版第1刷発行
[参考7] 毎日新聞「宮古・⾚前地区 「江⼾中期のクジラ」は宝物 神社に祭ってきた⾻、展⽰準備 /岩⼿」2016年5月28日 地方版



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