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歴史の彼方に(その2)

Echo and The Bunnymen(エコー・アンド・ザ・バニーメン)
とはどんなバンドなのか、ということが前回の話では
全然分からないので一応書いておきます。

1978年結成、4人のバンドでボーカル、ギター、ベース、ドラムです。
時代的にはポストパンク(パンク後)です。
ジャンル的にはニュー・ウエーブ、ネオサイケなどと呼ばれました。

英国リバプールの労働者階級のバンドなのですが、
ドラムだけ海外生まれのパブリックスクール育ちです、
この育ちの違いが後々バンドの歴史に影響を与えます。

4人で演奏するとなんか意味わかんないけど凄い、と言われ
優れたライブバンドとして評判を得ました
アルバムは1984年までの4枚は完璧な出来です。
英国、米国、ヨーロッパ大陸、
そして日本とツアーも行い成功を収めました。
1984年には1月と11月、2回来日しています。

今となっては考えられませんが、
1984年にはU2のライバルとされていました。
80年代はロックのフォーマットが崩れ、
オーソドックスな4人組のギターロックのバンドは
少なくなっていたので2つのバンドは時折ライバル
扱いをされていました。

1985年からこの2つのバンドの道はっきりと分かれました。
4枚目のアルバムをセルフプロデュースしたバニーメン、
一方のU2はブライアン・イーノにプロデュースを依頼しました。
U2は洗練された音になり、ファン層を広げ世界に羽ばたきました。
バニーメンの4枚目のアルバムも良かったのですが、
新しい要素に欠けていたのかもしれません。

バニーメンは88年にボーカルのイアン・マッカロクが脱退、
休止します。翌年1989年6月14日にドラマーの
ピート・デ・フレイタスがバイクの貰い事故で死亡します。
完璧だった4人のエコー・アンド・ザ・バニーメンの世界は
失われてしまいました。
メンバーが生きてさえいれば解散してもまた別の形で
再生することがあったかもしれません。
しかし、音の軸だったドラマーの死後
彼等の至高の音世界が戻ることはありませんでした。

バニーメンの最初の4枚のアルバムには
実はバンドメンバー以外のリバプールの音楽シーンの
達人たちが関わっていました。
マネージャーはKLFのビル・ドラムンド、
プロデューサーはライトニング・シーズのイアン・ブラウディ、
バンド3個分ぐらいの情報量です、
実は一つのバンドをリバプールの知恵者が集まって支えていたのでした。
知恵袋達が去ってからの1985年以降、バニーメンは
明らかにスケールダウンしていたように見えました。

また、一人だけパブリックスクール出のドラマー
ピート・デ・フレイタスは、ライフスタイルが違う
残りのメンバーと心理的に距離が出来てしまいました。
彼が一番ショー・ビジネスの世界に向いており、
破天荒なライフスタイルに馴染んでいました。
残りの労働者階級のメンバー達は
バンドは生活の為であり、一定の経済的な成功で満足していました。
彼等の階級と感性の違いはバンドの緊張感の為には
必要でしたが、バンドが長続きする為には難しい要素でした。
遅かれ早かれバニーメンはどこかで止まる運命だったのかもしれません。

ピート・デ・フレイタスの死後、
残りのメンバーは紆余曲折ありながら
2021年現在もエコー・アンド・ザ・バニーメンとして生き続けています。
彼等が作ってきた音楽の素晴らしさは不滅です。

バンド運営のセオリーがあるとしたら
バイクには乗らない、死なないようにする、
これだけは鉄則だと思います。

2020年10月に映画「アウェイデイズ」という映画が公開されました、
1980年代、バニーメンが活動していたころの
英国、特にリバプールの若者を描いた映画です。


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