見出し画像

東京オリンピックを終えて、いちマーケターが感じた「不可逆な変化」

東京オリンピックの閉会式を横で流しながらこの文章を書いている。過去最多のメダルを獲得した地元開催の夏季オリンピックは閉幕を迎え、同時に日本でもデルタ株という新型コロナウイルスの変異種が猛威を奮っているタイミングだ。

以前、SNS企業に勤めていた立場のいちマーケターとしてこのオリンピックを眺めたとき、これからのマーケティングで頭に入れておかなければいけないことが明確になったという感想を持った。生活環境の変化、DX、購買行動、コロナ禍は破壊と創造のスピードを数十倍で進めていると言われているが、それはマーケティングについても例外ではない。いくつかの章にまとめてみたいと思う。

スポンサーが疑いなく持ち上げられる時代が終わり、露出量の大きさによる期待値の計算はできなくなった

CIAのThe World Factbookによると、日本の人口の98%は「日本人」に分類されている。人種的にホモジーニアス(均一、同質)なこの国では、「オリンピック、国を代表する選手をみんなで応援しよう」という世論が圧倒的な多数派であった。職場や学校などで「昨日の金メダルすごかったね!」など、大会期間中は誰とでも話題を共有できる雰囲気があった。

このような市場においては、オリンピックをスポンサーする意義のひとつに露出量があった。好意的な雰囲気の中、国を代表する選手が戦い、世の中でそれが話題化される。結果のいかんに関わらず、ネガティブな反応はほとんど出ない。そして企業のロゴの大規模な露出によって、ポジティブなマーケティング効果を期待できた。

しかしながら今回のオリンピックは世論が分断された。開催の賛否が最後まで二極化していた。どちらが正解ということもなく、双方の立場も理解できるが、スポンサーとしては難しい判断を迫れれることになった。日本で最も時価総額の高い企業でもある、トヨタ自動車が直前でオリンピック関連CMを自粛して別の素材に差し替えたことは大きな事件だった。「オリンピックスポンサーになるかならないか」というポジティブな選択肢でなく、「オリンピックをスポンサーしていることを推すべきか引くべきか」というネガティブな選択肢が生まれることを、2年前に誰が想像しただろうか。

東京オリンピックを負の遺産として考える世論は当分残る。今後開催されるオリンピックについても、懐疑的になった視聴者は一定数残るだろう。以前ほどスポンサーがオリンピックに対して全幅の信頼を置くことはなくなり、数あるスポーツイベントのうちの一つとして位置づけられる。何のためにオリンピックをスポンサーするのかはシビアに見られるようになる。

露出量が大きい世界的なイベントのタイミングで、大型スポンサーは多くの広告を集中投下してきた。日本は価値観が均一な市場と考えられていたため、いままではそれが良しとされたが、今後は露出量が多ければ良いという単純なプランニングの考え方は廃れていくだろう。広告を出稿する目的、選ぶべき媒体(この場合は選ぶべきイベントの種類)、そして届けたいメッセージ、またタイミングなど、マーケターにはより熟慮が求められるだろう。そして、一度プランニングが終了したら終わりではなく、キャンペーン期間中は世論に注視しつつ、柔軟に判断することが求められるだろう。

企業はメッセージ性の強いアスリートを、どのようにサポートするべきなのか

イベントをスポンサーする考え方以上に大きな変化があるのは、選手をスポンサーする考え方である。

開会式では大坂なおみ選手が「多様性の象徴」として最終聖火ランナーを務めた。#BlackLivesMatter「ブラック・ライブズ・マター」を訴えていくことや、うつ病の告白など、この文章執筆時点では最もメッセージ性を発している日本人アスリートである。

メッセージ性のあるアスリートをアイコン化する動きが一躍注目されたのは、Colin Rand Kaepernick(コリン・ランド・キャパニック)が記憶に新しい。試合前の国歌斉唱でベンチに座ったまま、彼は立ち上がらず、アフリカ系アメリカ人に対する警察の暴力を放置するアメリカ国家に対する抗議を表明した。

ナイキは、その後に彼を広告塔に起用するという大胆な判断をした。

日本のアスリートも、今回のオリンピックでイギリスと対した際、相手に賛同する立場ではあるものの、キックオフ前に片膝をつくパフォーマンスを見せた。これは日本のスポーツ界では前例がなかったことである。

メッセージ性の強いアスリートを、企業は搾取していないだろうか

この「アスリートのメッセージ性」は、SNSの普及によって、さらに強固になりつつある。「マーケティング価値」というだけを考えるのであれば、アスリートにとっては新たな商品が生まれるということでポジティブな話とも考えられるが、そんなに単純な問題ではない。

アスリートを一人の人間と考えたとき、これは「企業が、スポーツ選手をコントロバーシャル(意見が分かれ、議論が活発であること)である世論の最前線に立たせて、そこから何かしらの利益を得る」という構図でもある。彼女はうつ病を告白しつつ、直前の大会を休んだ上で聖火ランナーを務めた。彼女の胸中はわからないが、わたしたちとおなじ、ひとりの人間でもあるアスリートの人権が守られることは、スポンサーや大会の主催者の意向よりも優先されるべきだ。

今まで以上にアスリートが社会に発するメッセージが求められるようになっていることは、オリンピック開幕前に競泳の池江璃花子選手に対して「辞退してほしい」「反対に声をあげてほしい」といったメッセージが複数寄せられていたことからも理解できる。池江選手は「私に反対の声を求めても、私は何も変えることができません。」とツイッターで返している。アスリートを都合のいい代弁者にしてはいけないと思う一方で、実際にはスポークスパーソンとしてどこかで期待してしまっているところもあるのではないだろうか。

アスリートに投げかけられる視線は、期待だけでなく悪意のあるものもある。大会中には、水谷隼選手、五十嵐カノア選手など、アスリートに対するSNSでの誹謗中傷が問題となったことを我々は忘れてはならない。大坂なおみ選手に対するヘイトスピーチも以前と変わらず目に余る。許しがたいことだ。

個人的な感情は抜きにして、誹謗中傷はあってはならないことであると断言しつつ、マーケティングに携わる立場としては、一定数は必ず生まれるものとして考慮して置かなければならない。企業が選手を応援したいのであれば、露出を増やすことだけを考えるのではなく、その副産物を計算に入れる必要があるし、選手への攻撃をすべて受け止めてやるくらいの覚悟をすべきであろう。

SNS全盛時代、選手と企業はどのようにチームプレイすべきなのか

企業が選手を応援する際も、スポーツのように、それがチームプレイであってほしいと願う。アスリートのメッセージ性を利用する流れは、今後のマーケティングで加速する。ただ、同時に一人の人間でもある選手をどう守っていくか、企業はその責任も追う必要がある。

メッセージ性の強いSNSが社会的影響力を持つ時代には、企業の立場でマーケティングをする際に、その土俵でどう攻めていくかだけではなく、どう守っていくかも考えていきたい。


最後に

この状況にも関わらず、全力のパフォーマンスを見せてくださったアスリートの皆様、多くの感動をありがとうございました。

みんなでコロナ禍を乗り越えましょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?