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徒然

おことわり

このテキストは僕個人のあくまで一意見を述べたものに過ぎません。また、深夜にサカナクションを聴きながら歩いてる時にふと思ったことなので、後日話題として取り上げていただいても反応できない可能性があります。

利他

僕は長男として生まれ、母と一緒に弟と妹の世話をしてきた。物心がつく前からそんな感じで、物心がついた時には小学生になっててサッカーをしていた。しかしなぜか人の表情や雰囲気を勝手に読み取って、放っておいたりズカズカ踏み込んだり場違いなことをしていたように思う。そんなことをしていたものだから、周りに友達がいたのはサッカーの時だけだった印象さえある。

中学に入ってサッカーで少しだけうまくいった。人生で一番楽しかったサッカーだったと思うが、心の底から楽しめていたのかと自問自答するとそう絵もないことに気づく。チームのために走ったし、妥協する仲間がいたら怒鳴ったし、仲間との繋がりを感じた瞬間は涙した。だが、普段は周りにいる人の顔色や雰囲気を見てはその煩しさを嫌厭してそれとなく付き合っていた。時にはその鬱憤が溜まって人を傷つけたり、問題を起こしたりして、後ろ指刺されるようなことをしていた。いつまでも心のどこかでその事実がこびりついてて、例えどんなに努力したり善行を積んだとて、後ろめたさを感じていた。例えば何もしてないけども、廊下で顧問とすれ違うのもストレスに感じたくらいである。その後ろめたさが「自分」をさらけ出すことを難しくさせた。それでも中学の時に仲良くしていた友人たちとは今でも親交があるし、ありのままを受け入れてくれていると思う。友人に恵まれたと再会する度に感じる。

高校生になって挫折をした。自分がもっと上手くなりたいと心の底から渇望していなかったし、そんな自分がいたこともあったとしてもそれをさらけ出すのが怖かった。周りを見渡すと、自身の向上のために努力して協力しあっている仲間がいた。そんな関係性になれていたのが羨ましかった。ここでも実は殻を閉ざしていた。その一方で大学受験を応援してくれた恩師たちは、必死に頑張るしかない自分を受け入れてくれた。なぜさらけ出せたのかと言われたら、自分のやるべきことが明確だったからだろう。それらのこと、当時で言う勉強に取り組めばいいということがわかっていたから。

大学に入っていろんな人間を見た。自分がさらけ出せる人間と殻を閉ざしてしまう人間もわかった。しかしこれから社会に出てもっといろんな人と関わっていくのかと思った時に、どんな人にでもある程度さらけ出せるようにならなければと考えた。そして相手の考えてることを引き出して、相手にとって建設的な会話をするようにと意識していた。結果、ある程度はさらけ出せるようになったが、そこからさらに発展するのはやはり限られたものであった。

正直に告白すると僕は、生まれてから常に人の表情を読んで、後出しジャンケンをしてきた。もはや脊髄反射レベルの域まできた。相手の感情を推察して、当たり障りのないように振る舞ってきた。それが相手とのコミュニケーションにおいて一番だと思うし、僕とコミュニケーションしてくれる相手のためを思った行動だから。

でもちょっと待って、「相手のため」って何。相手が落ち込んでいる時に元気出そうと励ましてあげるのも、一緒になって落ち込むのも、相手が困っている時に救いの手を差し伸べてあげるのも、むしろ突き放して強くさせるのも。その紙一重が、表裏一体がこんなにも深いとは思いもしなかった。「相手のため」とか「優しさ」って何だ。


頑張る、?

僕はこれまでサッカーと大学受験と東進を頑張ってきた。

果たして本当にそうだろうか?妥協していた点はなかったのか?寸暇を惜しんで絞り切ったと言えるのか?

胸を張ってYESなんて言えない。ちょっと長く休憩したり、何かにこじつけて一瞬でも避けた時間があったはず、いや、あった。それで掴んだ成果や栄光なんて、と後に振り返ると思ってしまう。さらには今あの頃に戻ったら、と考え始めてしまって当時のあら探しが始まる。

巷には素晴らしい成果を出した華やかなエピソードが溢れている。果たして彼らは心の底から「死力を尽くした」と言えるのだろうか。本心を聞いてみたいが、聞いたところで「やっぱりそうだよね、余白あるよね」って安心したい自分がいることに気づく。現実はそう甘くないと知っていながら。

一方で少し余白がなければ出せる成果も出せなくなってしまう、とささやいてくる話もある。見事に情報社会の渦にはまっている。

また、よく人に「頑張れ」って言うけれども、何をどれくらい?って思いながら発している自分がいる。何とも無責任である。


ここまでつらつらと内心思っていたことを何の恥ずかしげもなく綴ってきた。こんな文章を読み進めてくれた人には感謝しかないし、共感力の高い人なのか、似た境遇なのだろう。それか相当な物好きか。笑

読んで御察しの通り、見事なまでに自分を見失っているし露頭に迷っている。それでも何とか自分が自分であろうともがいて、自分が自分であれる場所を見つけようとしている。

こんな感じの思考をみんな通ってきたのかな。それにしてもなぜこんなにも他の人を気にして生きてるのだろうか。なぜこんなに他の人との相対性を気にしているのでしょう。周りの人が今までどんな経験や思考をして、そんな苦悩と闘って今を生きているのかに興味があるのかもしれない。もしくは自分が絶対であれる拠り所が無いし、そんなのを持ってても怖いからではないか。さらにはそれがいつか絶対でなくなることに怯えているのかもしれない。

そんなことを考えていた深夜でした。眠くなってきたのでこの辺で。ちなみに出尽くした感はあんまりありません。笑

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