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豚肉の厚切りに玉子や小麦粉やパン粉を付けて油で揚げた料理のこと

 小説を読んでいたら「とんかつ」ということばに出くわした。おやおやはてな、という気になった。自分が書くとしたら「トンカツ」になるかと思う。でも、読んでいた小説の雰囲気にトンカツは馴染まない。とんかつの方が断然良かった。
 小説は別にして、町中の料理店のメニューや調理法の本などで見掛けるのは、トンカツが多いように思う。でも、とんかつも多い。豚カツも多い。全部多い。正統な書記法はどれなのだろうかと悩んでいるうちに、脳が味噌ダレに浸したように深い茶色になった。困った。
 トンカツの「カツ」部分は英語の"cutlet"を仮名読みした「カツレツ」の略で、カツレツはフランス料理の"côtelette"(コートレット)の転訛とされている。されているなどと自信ありげに書いたけれども、明らかさに乏しい気になり不安に駆られたので辞書とウィキペディアを見たら、だいたいそのようなことが書かれていたので、その説を信じることにする。通常、外来語はカタカナで表記するので、かつれつではなくカツレツとなり、それを半分にぶった切った前半部は「カツ」。よって、トンカツの後半部は「かつ」よりも「カツ」の方が座りが良い。
 より難しい問題は前半部だ。「トン」は「豚」の音読みである。音読みは元を辿れば外来語と言えるのかもしれないが、現代は漢字の音読みだからといちいちカタカナで書かない。豚を音読みで書きなさい、と国語のテストで出題されれば、ひらがなで「とん」と書くことが多かろう。豚の音読みをカタカナでトンと書くと肩身が狭くなるのに、カツが後に続くとトンカツのほうがしっくりくるし、とんカツなんて表記をした暁にはギリギリ崖の上を行くような感覚に陥れられる。このいざこざを解決するために「豚カツ」と漢字カナ交ぜ書き法を取ることもある。いよいよ、渾沌としてきた。
 「湯桶読み」「重箱読み」というのがある。熟語で「訓読み-訓読み」「音読み-音読み」だと座りが良い。ところが、「ゆ-とう」「じゅう-ばこ」のように「訓読み-音読み」「音読み-訓読み」の組み合わせになると、なんとなく落ち着かなくなる。だから古人はわざわざ湯桶読みや重箱読みなどということばを取り立てて使い始めたのであろう。トンカツをその方式に当てはめるとどうなるか。「音読み-外来語転訛読み」である。他にこのようなことばがあるか頭を廻らせてみる。賭け事で有り金全部を一点につぎ込む「全ベット」なんてのがそうかな。「合コン」なんてのもそうかな。こういったことばを「豚カツ読み」と呼ぶのが良さそうだ。
 だけど、そんな呼び名を決めたところで「豚肉の厚切りに玉子や小麦粉やパン粉を付けて油で揚げた料理」を、「豚カツ」「とんかつ」「トンカツ」のいずれで書くのが正統かの問題は解決しない。なぜ「豚かつ」の表記を目にする頻度が際立って少ないのか、という疑問も積乱雲のようにもくもくする。
 動植物の名前を理科的に書くときはカタカナで書く。ナントカ目ナニ科ナントカ属のナニというふうになる。一方、料理名や文学作品中では漢字だったりひらがなが多い。絵本で「ちいさないぬにあいました」は微笑ましい。「ちいさなイヌにあいました」はよそよそしく距離感を覚える。シェフが「こちらは仔羊のいいところをバターを使い上手い具合にフライパンで焼いたものでございます」と紹介すれば思わず垂涎するが、「これは子ヒツジの肉塊を火で焼いたもの」と言われると、食欲がそれほどそそられない。理科だから。ところが「トンカツ」だ。「豚カツ」でも「とんかつ」でも焦げ茶色の美味しそうな絵が浮かんでくる。そうなると食す人々の興味は料理名の正書法ではなく、ヒレだロースだ、パン粉は細かい粗い、そういった部位とか調理法の好みの話へと向かう。
 コートレットという語を輸入したのが問題の始まりなのか、それをカツレツにしたのが問題なのか。それをぶった切ってカツにしたのが問題なのか。この問題は解かれるのか。問題を解くと言えばテスト、試験。試験は勝負。それまでの勉強の成果を存分に発揮して、なんとしてもこの難関を勝ち抜くために、験担ぎで「トンカツのカツは勝つに通じるから朝からとんかつだ。豚カツは美味しいな」という正書法そっちのけの食事風景がこれからの時節は各地で見られるはずだ。「勝つ」の元を辿ればコートレットか。否。誰だ、コートレットを訛らせてぶった切ったのは。


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