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私を突き動かすMrs. GREEN APPLEとは何なのか

「貴方にとってMrs. GREEN APPLEとは?」
と問われたら、間違いなく私は
「私の人生の主軸だ」と答えるだろう。

なぜなら、生きていて色々なことに思いを馳せるきっかけを作ったのは間違いなく彼らの音楽だし、生きていたいと思うのは彼らの音楽が聞きたいから。


2人がいなくなっちゃったときはもう何もかも分からなくなっていたのに、結局今もがっつり聞いてる。
変わってしまったのかな、と思ってしまったけれど
変わってないな、とそれを上回るほどに思ってる。



折に触れて思い出す、
2022年、3月18日のプレミアム公開の瞬間。
華やかなMVに祝福と少しの困惑で溢れかえるチャット。無理もない。金髪マッシュでおなじみの彼の髪は伸び、厚めの黒髪マッシュでおなじみな彼は前髪を上げ、髪は銀色に染まっている。キラキラと輝く目元のアイシャドウ。

素敵だな、多幸感だな、と思ったけれど、
欠けたものはもう取り戻せないんだと実感した。
しばらくミセスを聴けなかった。


その日は1度だけニューマルを聞いて、やめた。


友人と「帰ってきたね〜、華やかだね〜。よく2年も待ってたね〜」と言葉を交わしながらも「彼らは本当にミセスなのか?」と思ってしまっていた。


数日経ち、歌っていることは変わっていない、彼らは何一つ変わっちゃいないんだ!という答えに落ち着いてようやく、改めてニュー・マイ・ノーマルを聞くことが出来た。


やっぱり好きだ、と強く思った。
みんな同じ気持ちだったのか、その頃にはおかえり!のコメントでいっぱいだった。


(Twitterではきっとたくさんの困惑があったのだろうけれど、2022の夏まで一切Twitterやインスタグラムを入れていなかったので分からないし、その雰囲気を知らなくてよかったのだと思い込ませている。)



私が初めて彼らの音楽を聴いたのは2018年。


「おすすめの曲があるんだけど」と友人に言われ、
差し出されたイヤホンから流れ出したのはStaRt。
当時まだ小学6年生。
その時初めてバンドという概念を知った。

『幸せな時間をどれだけ過ごせるかは
微々たるものでも愛に気づけるか さあ 試されよう』


その歌詞に、子供ながらに魅了されたんだと思う。
今も子供だけど。


そういえば、愛とか幸せとかそんな概念について考えたことは無かったけれど、小学生の割にはとんでもない孤独や寂しさを抱えていたなあ、と思う。
同時に、誰かに愛されたいという承認欲求がとんでもなく強かったな。

それからというもの、アウフヘーベンにどハマりして永遠にリピート。


平凡な11歳には正直歌詞の意味なんて当たり前のように一切理解出来なかったし、アウフヘーベンという哲学用語すら意味を咀嚼出来ていなかった。



高校生になってからようやく、曲の意味が少しずつ分かってきたような、気が、する。
なんとなーく聞いていた歌詞の深みが徐々に増す。
分かったつもりになっていた歌詞の残酷さや優しさがどんどん募っていく。




ミセスの音楽って、
ポップな曲調、なのに歌っていることは重い。
ひたすらに、愛と孤独と死生観。
フェーズ2以降の、これまでにないような喪失感。

ミセスの説明をするなら、まずこの3文を言いたい。



フェーズ2に入ってミセスが大きく変わったところは、喪失感と諦めが曲中に現れているところだと思う。2人のことがあったからだと思わざるを得ない。



ただ、何があっても私は諦めて欲しくなかった。そこだけは本当に譲れないし譲るつもりもない。
「大人になる段階で何か苦労がありましたか?」的なニュアンスの質問(本当に曖昧)に対しての
「もうどうでもよくなっちゃった」。
心臓が抉られた。バクバクした。涙は出ないけど、泣きそうな気持ちでいっぱいだった。
どうでもいいとか本人の口から聞きたくなかった。

汚い大人や社会に塗れる中で、それでもなにか希望を持っていたい、反骨心を持っていたいと抗い葛藤するフェーズ1の曲たちにどれだけ救われたことか。どれだけ縋って生きてきたことか。
寄りかかる先がふっと消えたような気持ちになった

だからと言って離れるとかそんな次元の話でも、ミセスに失望したわけでもなく、「これが大人になるってことなのかな」と悲しく思っているだけです。
「いつか綺麗な大人になれるかな」と歌っていた彼の口から発される「どうでもいい」という言葉で、大人になるのが更に嫌になってしまった。
汚い大人になんてなりたくないから、大人になって苦しくなった時はきっとフェーズ1の曲たちを聴くんだと思う。そうであって欲しい。





Mrs. GREEN APPLE = 明るい、ポップ、青春

だなんて世間みーーんなに思われたら、ミセスはきっといなくなっちゃうんだろうな。




思い出される、Attitudeのコメント欄封鎖。
あの時は怖さまでも感じたけれど、本当に限界値にいたのだな、と改めて感じる。解放してよかったのか、という気持ちもあるくらいには。


行けてないからこそ何でも言えるが、私はこれと似たようなものをThe White Loungeに感じている。

思いが伝わっていないという焦燥感からこの摩訶不思議なツアーを造り上げたのか、
ミッキーマウスのような、誰にとっても壮大で華やかなエンタメを昔から目指していたからこその思いで''音楽劇''の名を掲げたのか。


前者でも後者でもなかったらごめんなさい感。
前者にしてはファンに対する信頼(歌詞を読み込んでくれて感謝、など)が今は厚いけれど、
後者にしては孤独や哀が大きすぎる。
だけども、もし後者が正しいとすれば、言ってしまえばそれがtheミセスなんだよね。

華やかにしようとしても、孤独や決して明るいとは言えない感情が見え隠れしてくる様なところ。
映画のために雑誌、ライブレポ等詳しくは一切読んでないので詳しくは全く知らないです。的はずれなこと言ってたら笑ってください。


話がズレたけど、ただ、世間様の、ミセスに対する
''明るくてポップ''なイメージはおそらく過去の話。



世間にそう思われたくなくてSoranjiを出して、
ミセスの真髄を世間に届けようとしたんだろう。
それが上手くいって、多くの人の心を掴み、ミセスの大衆イメージをガラリと変えたSoranji。


良かった〜。よかったよ。
彼らの本質が少しずつ世間に広まる。
あくまで''勢いに乗って''爆発的にヒットしたのではなく、確実に''貴方''の心を掴んで、楽曲が評価されているというのはとても嬉しい。


まあ、私はまだ受け止められていない。Soranji。


大森元貴の心の臓の本質に潜って産み出した曲だと分かっているけれど、どうもこの曲が彼から産み出されたものとして受け止めきれない。

正しくは、この曲に込められた喪失感と愛をしっかり受け止めようとしたら自分の見たくない部分を見てしまうような気がして、しっかり聴けていない。


大人になったらまた違った気持ちで聞けるようになるのかな。




「Mrs. GREEN APPLEが歌っていることはなに?」と問われたことがある。私の考えはこうだ。
第一に愛、第二に孤独、そして、哲学。



彼のその哲学は一貫している。
例えば、


WaLL FloWeRと
アポロドロス、コロンブスの共通点は

『自分の持つ、貴方や誰かとの違いを愛す』


だと思っている。10年越しに、全く同じ大森哲学の答え合わせ。哲学というか、なんというか。
それは本人が本心でそう思っているのか、あくまでそう思いたいのかは分かりませんが。




どの曲にも孤独が見え隠れしているのだ。
彼の孤独を埋めるように産み落とされた曲たちは、同時に私の孤独にもそっと蓋をしてくれる。



どんな曲にハマっても、結局ミセスに帰ってくる。
自分の心をかき乱すような、聴いてて苦しくなるのに愛おしくなるような音楽はミセスしかない。
苦しいのに、愛おしい。
この表裏一体の感情は一体、何。


大森さんから孤独が無くなったら、ミセスはミセスでなくなるんだろうな、と思う時がある。

ミセスの曲は全て、大森元貴の孤独が原動力になっているような気がするから。


大森さんにはどんな世界が見えているのだろう。
彼と今も共に生きる2人も。
彼らを「天才」だと形容する人が多くいますが、「天才」とひとくくりにされるときっと彼らは死んでしまいます。



命を削りながら作っているから。
自分自身と、曲と、深く向き合っているから。
努力と血と涙の塊だよなあ、本当に。


曲を作っているのは大森さんだから、大森さんにフォーカスが当てられがちだけど(もちろんそうだしどんどん当てられてくれ)



2人の思いは本当に半端じゃない。
この世の誰よりも大森さんのファンだし、誰よりも思いを噛み砕いて音に落としてて、、尋常じゃない楽曲への愛と苦しみがある。

彼らじゃないとミセスは成り立ってない。
全てが唯一無二でしかない。




ミセスが歌っていることは全部、偽ったものや想像のものなんかじゃない。だからより、響く。
問いかけてくる。訴えかけてくる。


「どうしてこんなにこの人たちはこの孤独を分かっているの?歌っているの?」と苦しくなる。


その立場にならないと分からない孤独や心境が歌われてるから、だから、心を揺さぶるような、私を突き動かすような曲たちなんだと、思う。



例えば、「君を知らない」。


写真の中で息をしてる あの頃の君に会いたい


私の手をとっくに離した貴方という存在がいて、
私はその手を離したくなくて必死に掴むけど
もはや貴方は振り返ることもない。
昔の写真を見返しては、今とは全く違う、私と貴方の関係が恋しくなって涙する。


泣けてしまうけど 悔しいけど 君を思っていたい


だけどもう、貴方と手を取り合うことを諦めて、
貴方が何を思っていようとも、私だけはずっと貴方を思っていたいという、そんな思い。


こんなの、経験した人にしか分からない。
経験した人にしか分かんなくていいんだよこんなの
重さなんて、深さなんて、全く違うけど



あの出来事がなければこの曲と、Part of meと、Soranjiは作られていないのかな、とまで思う。
実際、彼の口から語られる真実はそう。

それゆえに、君を知らないをフェ2曲で1番愛する私は悲しみに暮れてしまう。



深さや重さは違えど私も似たような経験をしたからどうもこの曲には苦しめられる。
だけど、この曲に縋っては救われている。


彼の深い孤独や喪失感が誰かを救うとかいう、とんでもない皮肉になっているかもしれない。


孤独な音楽家の作る曲が世間に評価されていくのは本人にとってどうなんだろう。どう、というか。

なんとも不思議な気持ちだとENSEMBLEツアーで言っていたけれど、今もまだそう思うのだろうか。




高校生になってようやく、
愛、孤独、希望、絶望という概念のピースが
どの曲にも散りばめられていることに気づいた。


きっとまだ気づけていないピースはたくさんある。
歳を重ねながら、ひとつずつ拾っていきたい。



私は2006年生まれの17歳。
だから、私が今見て、感じている世界は
10年前に彼らが見て、感じていた世界。


ProgressiveやVariety。
恋と吟も、アウフヘーベンも、春愁も。
聴きながら、今の私とほぼ同い年の彼らが見ていた世界はこうだったのか、、と思いを馳せる。


ただ純粋に、同い年が見てる世界をこうやって知れるのが嬉しい。


それと同時に、自分の見ている世界や自分の考えがどれだけ浅はかで、俯瞰できていなかったのかを思い知らされる。



深い話をするときってこう、感傷に浸ったり、なんだか特別な気持ちになったり、お互い本音をぽつぽつ話す空気感だったり、あるじゃないですか。


聞く度に、その感覚になる。曲との対話。
同時に、自分の思いを全て受け止めてくれるような気がして、安心する。


私の思ってること、間違ってなかったんだ、とか
私より俯瞰して、更に先の世界を見てるな、とか
自分自身と向き合うきっかけになる。
それで、考えが広がって、深まっていく。



本質ってなに?心ってなに?死とは?愛とは?と
誰にも聞けない、誰も明確に答えてくれないからと自問自答を続ける日々の中、ミセスが、大森さんが、そっとそのヒントをくれる。



歳を重ねるごとに(まだ高校も卒業してないけど)
曲の感じ方が変わっていく。


これ、こういうことかな、ああいうことかな。
言葉に表せれなかったけど、私の思ってることってまさにこれだな。と思ったり。

歌詞を見て分かった気になってたことを実際に経験して、深く落ち込んだり。



こういうことが普通にある。
一緒に歩んでくれている気がしてる。勝手に。


だけど、語弊があるけれど、別にこちらを救うような曲なんて歌わなくていい。夢は見せてほしいけれど、希望を与えようとなんてしなくていい。


ただ、彼らが素で産み出す曲たちが
自然と私に寄り添うものであってほしい。
勝手に私を救っていてほしい。



もちろんミセス以外にも色々な曲を聴くけれど
絶対ミセスに戻ってくるし、うわ、苦しいって思った時、気づくと必ずミセスを聴いている。
不思議なものだ。心がミセスを欲している。



タイトルにもある通り、私の心を突き動かしてくるのはミセスしかいないんだ、と思い知る。
孤独に乾いたココロを潤すのは彼らだけ。




私、感動モノの映画とかで全く泣けなくて。
感動こそするけど、感動したな〜で終わる。
涙の渦に呑み込まれる映画館で、まるで私は1人取り残されたように涙を流すことが出来ない。
ドライな人間なのかもしれない。


だけど、ミセスだけは、聴くと涙が出る。
不思議で、でも彼らのインタビューや歌っていることを見ていると、納得するような。
彼らだから、なのだろうな、と思う。


うーんと、良い言葉が浮かばない。大学生になったらもう一度この文章を推敲したい。

支離滅裂な文章でしたが、ここまで読んでくださった方(いるのかな?笑)ありがとうございます。



私にとってのMrs. GREEN APPLE。
人生の主軸といいつつ、語りきれない何かがある。


貴方にとってのMrs. GREEN APPLEは
また私とは違う、素敵な物語があるのでしょう。




全ての出逢いに感謝して。

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