見出し画像

99年生まれ、サクラ・チャン

「私、人には、階級ってものがあると思うの」
「え?」

 安っぽいネオンが目に優しく光る。歌舞伎町にある三時間2500円のラブホテルの部屋で、さくらは言った。彼女は肩に、薄っぺらいバスローブを羽織っている。さっき、さびれたお風呂に、お湯、濁ってるね、と苦笑いしながら一緒に入ったのだ。彼女の突然のその言葉に、私は福沢諭吉の言葉を思い出した。天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らないんじゃなかったっけ。一万円札に乗るような人が言った言葉だから、完全に正しいとまでは言わなくても、そこそこ国民の総意だったりするんじゃないだろうか、と私は思う。それに、世田谷区の実家に住み、両親に大事に育てられ、日本の最高学府である東京大学に通っている彼女みたいな人が、人には階級があるなんて言っちゃいけないような気がする。だって、それってすごく、皮肉なことじゃない?私みたいな人は階級が上なのよ、って言ってるようなものじゃない。
 そういうことじゃあないのよ、とさくらは、少し、うれしそうな顔をして、こっちに首を曲げて言う。彼女は山田詠美という女流作家がお気に入りで、しゃべり方は、その作家の描く小説に出てくる登場人物を意識しているようだ。
「日本の道徳教育って、人は平等だって教えられるでしょう。でも、それってすごく危ないことだと思うのよ。だって、今の人って平等だと思う?私は、全然、そんなこと無いと思う。全然嘘なのに、子どもたちに人は平等だって教えたらいけないと思うのよ。私は確かに、自分のこと、環境にも才能にも恵まれて、まさに上流階級だわって思っているわよ。でもそれは、人は平等なんかじゃ全然ない、って認めることが出来てからの話。この前まで、人は平等だって本気で信じていたし、東大に入ることが出来たのは、ほとんど自分の努力のおかげだ、って本気で思っていたのよ」
 さくらは、私たちは決して平等ではないし、完全に平等になんかなることは出来ないんだ、と言う。そもそも、平等という概念自体、あやふやなんだから、と。そんなの、私にだって解っている。それでも、小学生に道徳教育をしなくちゃならないのなら、そう言わなくちゃいけないのじゃないか。
「さくらみたいに、道徳教育を批判するだけなんて、一番たち悪いんじゃなーい?」
「あら、道徳教育なんてくそくらえよ。大体、道徳なんて一つも解ってない大人にどうして道徳なんてもの、教えてもらわなきゃいけないのよ。道徳教育っていう言葉が嫌いだわ。せめて、日本の規範教育とかなら許せるわ」

 さくらは、他の友達みたいに、簡単に、これが「真理だ」とか、「倫理的だ」とか、「道徳的だ」なんて言ったりしない。それが、誠実だってことなんじゃないかと、彼女を見ていると私は思ってしまう。他の子ときたら、これが私にとっての真理だ、って簡単に言ったりする。「わたしはわたしだ、他の誰でもなくわたしなんだ」なんて、ちょっと、カッコつけたことを言ったりするのだ。その言葉に、なるほど、と思った時期もあるけれど、彼女と一緒にいて、だんだん疑問に感じてきたのだ。だって、わたしはわたし、なんて当たり前すぎる。当たり前すぎることは、正しいけれど、正しすぎるが故に、何も言っていないのと同じなんじゃないのかしら。たしかに、一人一人、人間は違う。「だから、一人一人に合わせて、それぞれの関係を構築して行くべきだ」って、ジェンダー論という授業で、先生が言っていたのを、私はよく覚えている。その時、それって当たり前すぎるじゃないの、って思ったから。一人一人、適切な関係を構築できれば、それに越したことはないけれど、それを言ったら、ジェンダーの問題は解決してしまう。そんな簡単に、それぞれ違うんだから違う仕方で構築していけばいいじゃん、って言われて、ジェンダーの問題を抱えている人は、納得するのだろうか。それぞれ違うと言ったって、みんな、社会の中に生きていて、自分を包む社会の影響を全く受けていない人なんて、いない。人の違い、というのは、一体どこからくるのだろうか?と思った。それこそ、法や文化などの社会なのではないだろうか。もしそうだとしたら、社会を無視して、個人だけに注目するやり方は成り立たないと思う。
 さくらは、「私はフェミニストよ」とあっさり言う。私には、私はフェミニストだって、みんなに表明する勇気なんてない。フェミニストって、なんだか、よくないイメージだもの。周りのたくさんの東大生は、ジェンダーに関心を持ちながらも、自分をフェミニストだって名乗る人なんていない。「あら、少しでも、今あるジェンダー規範に疑問を持つなら誰でも、フェミニストになる資格があるのよ」そうかもしれない。もし本当にさくらの言う通りだったら、みんなフェミニストじゃないか。

「ねえ、名誉男性って知ってる?」
「一応知ってるよ。えっと......男社会に迎合して地位を得た女性のことでしょ......?」
「そう、それって、実は私のことなのよ」
「え?さくらは、迎合せずに戦ってるんじゃないの?」
「本当はそうしたいのだけど、残念ながら、けっこう、迎合してるのよ。可愛くない女は勉強で頑張るしかない!って、自分に言い聞かせて、東大に入ったし、好きな男の前では、一生懸命こびを売る。ぶりっ子なのよ私って、実はね」
 そんなふうにすまして言う彼女が、男の前で猫撫で声を出してるところなんて、想像がつかない。それとも、私の前ではすましている彼女も、好きな男の前では、自ら弱い自分を演じたりするのだろうか。それってすごくいやらしい。そうよ、好きな男に敗北するのって、すごく気持ちがいいことなのよ、と言う彼女にわたしは何も言えない。そんな風に感じたことが、まだ、ないからだ。いやらしいことが、そのまま、気持ちよい心地に変換することなんて、想像するだけで、顔が赤くなってしまう。
「だからね、確かに私は、今のジェンダー構造に疑問はある。けど、それよりもっと、じゃあ、どこで線を引けばいいかってことに、勉強する意義を見出してるのよ」
「男と女は違うってこと?上野千鶴子が男と女を二元化しすぎることは、よく批判されているわよ。線を引くって何?」
男と女を二元化して考えること自体が、男女の差を広げたりするんじゃないだろうか。
「男と女は違うのよ。だって、体の構造が違うじゃない。黒人と白人だって違うわ、だって、肌の色が違うじゃない。健常者と障害者だって違うわ、だって、できることが違うじゃない。私とあなただって違うわ、だって、見るからに違うじゃないのよ。でも、私とあなたの違いは個人で比較されているけれど、前者3つの違いは、カテゴリーで比較されている。カテゴリーって難しいのよ。カテゴリーのおかげで、社会がうまくいくこともあれば、誰かが、カテゴリーに縛られて苦しい思いをすることもある。私はもし、合理的に仕事を割り振るなら、力仕事は男のカテゴリーに割り振るし、赤ちゃんの世話は母乳の方が粉ミルクよりも健康に良いから、女のカテゴリーに割り振る。でも、世の中そんな簡単にいかないことは、みんな感じているから、フェミニズムがあるんじゃないかしら。力の弱い男性だっているし、赤ちゃんが欲しいけど仕事をバリバリしたい女性だっている」
 確かにそうだ。さくらは、もっともなことを言っていると思った。だから、ジェンダーの授業で、人それぞれだから一人一人に合わせた関係の構築が必要だ、って当たり前のことを言う人が出てくるんだ。でもそれじゃあ、解決しない。すでにあるジェンダー格差を見つめて、何かを変えていかなければ、今の均衡点で安定している世の中は、自然に動いたりしないのだ。じゃあどうすれば良いのだろう。上野千鶴子が東大の女子率の低さを改善するために、アファーマティブアクションも必要だって言うことに、みんな批判する。それは東大内部のせいじゃない、社会全体が悪いんだって。でも、考えられる社会全体とはどこなのだろう。社会全体を変えるにはどうすれば良いのだろう。結局、東大などの小さな所から変えていくしかないのではないのじゃないか。

「線を引くっていうのはね、本当はできないの。でも、やるしかないの。そういうものってあるでしょう」
 例えば、虐待の連鎖ことを、彼女は言っているんじゃないか。ニュースで見る。子どもを虐待して、殺してしまう親。どうして、あんな、可愛くてか弱い存在にそんなひどい仕打ちが出来るだろうか、と心が痛む。けれど、その虐待をしてしまう親達のほとんどは、幼少期に虐待されているのだ。自分の子どもに虐待をした親のうち、虐待された経験がある人は、72%にも昇る。彼らは、虐待されずに、まともな家庭で育っていたら、虐待をしていなかったのだろう。そう思うと、酌量すべき原因はそこにある気がする。じゃあ、彼らは責任をとる必要はないのだろうか。きっと、そんなことはないと思う。いくら、原因があったって子どもの親になったからには、というか、生きているからには、なにか責任を背負うしかないのだ。どんなことにも原因と責任を考えることが出来る。きっと、原因と責任に線を引くことなんて、私たちの誰にも出来ない。けれど、今のこの社会を成り立たせるために、「法学」は無理矢理、原因と責任に線を引いているのだ。

「左足がない子がいました」
突然、彼女は語り始めた。
「もう一人、五体満足の子がいました。この世界は徒競走社会です。子どもの頃に、徒競走で早いタイムを出せば出すほど、将来、地位や権力、経済力を得るのに有利になります。この二人の場合、普通に競争すれば、五体満足の子が勝ちます。でも、それだと、左足のない子はかわいそうすぎるから配慮してあげます。機会の平等とは、あらかじめ、競争に不利な子に、競争に対等に参加できるように義足をつけてあげることです。私たちの世界に当てはめて考えてください。赤ちゃんを産む性である女性には、産休や育休があたえられています。障害者には、特別な補助があったりします。このことに文句を言う人はいません。それでは、対等に競争できるように、左足のない子には、五体満足の子と同じタイムを出せるだけの下駄を履かせるべきなのでしょうか。果たして、それが、適切なことなのでしょうか。私はそうは思いません。左足のない子には、徒競走意外の、その子にとって得意な分野で活躍して欲しいと思ったからです。......ああ、だけれども、この世界は徒競走社会です。徒競走が苦手だと、一気に道が狭くなり、生きにくくなってしまいます。やはり、いくらかの補助が必要でした。もう一度私たちの生きている世界に当てはめてみましょう。私たちは、徒競走社会ではなく学歴社会に生きています。一つの受験で、大きく人生が変わります。たかが受験だと思うでしょうか。人が受験や大学に縛られないのなら、すごく良いことかもしれませんが、そこまで強い人間を、私はあまり見たことがありません。もし、もしです、日本で女として生まれたことが、日本最高学府の東京大学に入るのに不利になるのなら、少し、下駄を履かしてあげても良いかもしれないのです。もし、今の構造の不平等の方が、アファーマティブアクションを行ったときの逆不平等よりもひどい確率が高いなら、少し無理矢理でもやらなくてはいけないことがあるのではないのでしょうか?」
 そこまで言って、彼女は息を切らした。少しムキになっているみたいだ。どうして、彼女はそんなに必死なのだろう。

「恥ずかしいの」
「えっ?」
「昔の自分が、恥ずかしいの」
「………誰でも、恥ずかしい自分はあるでしょう」
「うん……。でも、男にモテるような可愛い顔か、男と対等に戦える学力を持っていなきゃ、女に生まれた人間として駄目だって、本気で思っていたのよ。そんなの、何も解決にもなっていないのに。構造自体は、疑っていなかったの」
「構造を疑うなんて、ずっとなんか出来ないよ。つらいし、大変だもの。構造の中で頑張るしか無いって思うわ。さくらは、この構造の中で充分、頑張ってきたじゃない」
「うん、私もそう思うわ。でも、構造自体で不利な人がいるってことを忘れたくないのよ。私はたしかに、高校時代に泣きながらたくさん勉強して、男にモテるために、いろんな試行錯誤をした自分の努力を、信じているけれど、信じられない部分だって残されているわ」
なんだか、苦しそうだ。私は、どこまで考えているのだろうか。きっと、全然、考えられていない。それでも、自身の歴史に、黒の絵の具を塗りたくる覚悟で、恥ずかしい思考を繰り返していかなきゃいけないのかもしれない。このままの私を保っていれば、今の私を恥ずる未来は訪れない。けれど、私だけの真理を見つけたと思ってしまったら、そこで私の歴史は終わってしまうのではないだろうか。
「私にはわからない。でも、これだけは解るの」
「なにを?」
「日本の受験、ペーパーテストって、マルバツ決まってて、とても平等だって思ってた。でも、見方を変えればすごく不平等だとも思うの。親の学歴、経済力、教育、住んでいるところ、生まれた性、もっと言うと遺伝なんかで、有利不利があるってこと。そして、そういうことに、気づくことの出来たことが私にとって、大切なことだ、ってことは解るの」

可愛い人、賢い人、このままの社会で評価される人。可愛くなることも、賢くなることも、この構造の中で上を目指しているだけだ。けれど、本当は、人が人を評価することなんて、難しすぎてできっこない。法の中で生きるわたしたちは、なにか、自分の中に漠然とある基準と、そして、たまの、その基準への疑問から逃げることが、できない。

サポートしていただけると、とても助かります! 今のところ記事は有料にしたくないのと、まだ学生の身でお金に余裕がないので、サポート費は、記事を書くためのラブホに行く資金にさせていただきます。