没入すること

 ※こちらの記事は、自分の考えを整理するために書いた、自意識のカタマリです。どうぞご容赦ください。

 ヒトのおしゃべりが気になる性質です。

 バスや電車での会話、喫茶店での噂話、職場での雑談……。ふと、耳に入るともうそこから逃れられなくなり、延々と聞き耳を立て、(別にそんなこと聞きたくない)とか(仕事しろよ)とか(電車の中で営業の話するなよ)とか、心の中で突っ込みのループに入ります。携帯アプリゲームも、読書も効きません。音楽でも聞けばいいのでしょうが、イヤホンをすると頭が痛くなるのです。難儀な話です。

 図書館にマンガを借りに行きました。「ヒカルの碁」(集英社)という作品です。学生の頃に連載していた時は読まなかったのですが、最近同作者の作品「バクマン」を読んで、ふと借りてみました。佐為がカワイくてかっこよくてたまりません。作画の小畑先生の絵は、キャラクターが一コマ一コマ計算されたように「ぐっとくる」完成された表情をしており、その美しさに魅入ってしまいます。また、原作者のほった先生のストーリー運びも秀逸で、碁という一見すると「地味」な題材で、先が気になる読み応えのある展開でぐいぐいと魅せてくれます。今20巻中9巻まで借りたところでして、最初は碁に興味のなかった主人公、進藤ヒカルが、碁のプロ試験を受け、その合否をかけてライバルたちと凌ぎを削る……。プロになれるのは3名、個々の思いとプライドがぶつかる闘いに目が離せません。

 ということで、すっかり楽しんで読んでおります。続きがすぐに読みたくて、借りたその場で読み始めました。図書館の閉館間際でしたので、図書館を出たところの待合スペースの椅子でパラパラと読んでおりました。

 すると、来たんですね。図書館併設の施設を利用していた、ワカイ(笑)おにーちゃん、おねーちゃんの団体が。楽器のような荷物を持っていたので、何かの練習終わりだったのでしょう。10人弱、ぞろぞろと表れて、ざわざわと打ち合わせめいたものを始めました。

(ああ、始まってしまったな)と思いました。しかし、ストーリーの先が気になっていたわたしは、そのままヒカルの碁を読み進めました。自分が満足するキリのよいところまで読み、帰途につきました。彼らはまだザワザワと打ち合わせしていました。

 ふと、(あれ、気にならなかったな)と思いました。ヒカルの碁に没入していたためか、彼らの存在やおしゃべりは知覚していたものの、気にならなかったのです。

 他人のおしゃべりが気になるときと、気にならないときがあるようです。本を読んでいたって、気になるときは気になるんです。今回、周囲の雑音が気にならなかったのは、「続きの気になる漫画」に没入していたためと思われます。集中、といってもいいのかも知れません。海中をサルベージするようにストーリーの世界に潜り込み、また水面に出てくる。時間はさほど経っていないはずなのに、戻ってきた「現実」は、浦島太郎が竜宮城に行って帰ってきたかのような、「新鮮さ」があるように感じます。

 思い返せば、物心つくかどうかの幼い頃、何かに没入していて、邪魔をされたような感覚が残っています。何かの本を一生懸命に読んでいた、何かの絵を一生懸命に書いていた、しかし大人の世界では「○○しなければならない」と強制的に打ち切られ、邪魔をされ、心地よい眠りを無理やりたたき起こされたかのような、不快感を得た感覚があります。具体的なエピソードの記憶はないので、本当に幼い頃の出来事だったのでしょう。

 スポーツ心理学等で、「ゾーンに入る」などの表現がありますが、没入することは、それに近しい行為なのかもしれません。それが自分の好きなもの、興味あるものなら、没入もしやすいでしょうが、「義務でやっているもの(家事や仕事)」、「時間の制約があるもの(○○までに仕上げなければならない、○時までに行かなければならない)」となると、とにかく作業をこなすことが「目的」となってしまう。バスで「降りるバス停を気にしながら」では、没入できないし、またいくら没入していても、不意に耳元で「バン!」と大音量が鳴ると、否応でも現実に引き戻されます。わたしの場合は、「好きなこと」や「興味のあること」も、結果や締め切りに追われて「義務」や「作業」として行うようになってしまった節があると感じます。

 仏教に「盲亀浮木(もうきふぼく)」のたとえ話があります。お釈迦様の弟子のひとりが「人間に生まれることってどのくらいすごいことなのですか」と問いました。お釈迦さまが答えていわく、

「広い海の海面に、真ん中に穴の開いた木の輪っかがぷかぷか浮かんで漂っている。その海の底には、目の見えないカメがいて、100年に1度水面に上がってくる。目の見えないカメが水面に上がってきたときに、たまたまプカプカ海面を漂う木の輪っかに首をつっこむこと」そのくらい、人間に生まれることは「有りえない」、「有り難い」から、「ありがたい」という言葉ができたそうです。

 科学的にも、精子と卵子が受精し、人間が生まれるのは天文学的な確率と言われます。本来、わたしたちがこの肉体を使って生活できる環境は、「夢のような」「ありえない」幸運なことだといえます。

 そうであれば、体を使って行う一挙一動、目の前にあるすべてのことに没入できるようになったら、一つ一つの行為が違った意味を持ってくるのかもしれません。わたしにとっては、現在行っている「書く」という行為も、没入のひとつです。「結果」ではなく、その「行為」自体を楽しむこと。長らく味わっていなかった感覚を、ゆっくりまた味わっていきたいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?