男装の麗人

※こちらの記事は、自分の考えを整理するための自意識カタマリです。どうぞご容赦いただきますよう、お願い申し上げます。

 自分の好きなものを言うと、自分の恥部をさらしているような感覚があります。また、その「好きなもの」の価値を穢してしまうような気がします。

 「タピオカミルクティが好きです!」みたいなのは、特に感じません。「犬が好きです」「空色とピンクが好きです」これもオッケーです。

 たとえば「妖しのセレス」(渡瀬 悠宇/小学館)という少女漫画があります。そちらの「司珠呂」というキャラクターが好きで、高校生の頃大いに読みました。滅多にそういうことはしないのですが、スピンオフの小説やドラマCDも購入しました。

 それから、ファイナルファンタジーという有名なゲーム作品がありますが、「5」の「ファリス」というキャラクターも好きです。

 こちらの2キャラクターは、どちらも「男装の麗人」です。社会的対外的には「男性」としてふるまいながら、女性らしさをふと見せる。「ファリス」はさっぱりしたキャラクターですが、「司珠呂」はユニットを組んだ相方に対する恋愛感情や駆け引き、男女どっちでもない境界線にいるものの切なさや葛藤、また歌手という設定、すべてが相まって、とにかくぐっときたんです。過去形なのは、学生時代の多感な時期の話だからです。社会に出た現在でももちろん好きですが、学生の頃はキャラクターに「自分を重ね」「なりきり」「酔いしれる」ような、一体感を感じていました。

 それを「好き」と公言することは、自分という人間を自己紹介するような感覚だったのかもしれません。そして、自尊感情が低かったために、それを口外することで「一体化」した対象のキャラクターが「価値を損ねてしまう」ような感覚を持ったのかもしれません。

 そこまでに、物語やキャラクターに没入し感情移入できたのは、10代の一時期でした。機能不全の家庭で無自覚なイジメを受け、逃げ場のなかった抑圧された環境で、マンガのキャラクターに没入することは、精神の均衡を保つひとつの手段だったのかもしれません。大学生になり、実家を離れ一人暮らしをするようになると、焦がれるような一体感はなくなりました。

 だけど、実家を出てからも、社会に出てからも、ずっと「司珠呂が好きなんだ」、「お頭が好きなんだ」と堂々口外することに、抵抗感があった。なので、この場で思い切って公開してみました。まあ、男装の麗人って、いろいろな物語でも人気ですよね。ベルサイユのばらのオスカルとか。宝塚歌劇団も、男装の麗人たちが華やかに物語を魅せてくれます。人類共通感覚的に、人がぐっとくる何かを秘めているのかな。

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