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【チャチャポヤ文化】レイメバンバ博物館の成り立ち

こんにちは、さくちゃんです。今日は私のホテルが併設しているレイメバンバ博物館をご紹介したいと思います。

私が経営するホテルは、「カサ・マルキ」といいます。「カサ」はスペイン語で「家」、「マルキ」はケチュア語というインカ帝国の言葉で「ミイラ・先祖」を表します。いうなれば「カサ・マルキ」は「ミイラの館」。

この名前は、ミイラの収蔵で有名なレイメバンバ博物館に由来しています。この博物館の収蔵物のメインは219体のミイラ、チャチャポヤ文化というペルー北東部で8~15世紀に栄えた文化のものです。

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チャチャポヤ文化は今もなお多くの謎に満ちた文化です。15世紀にインカ帝国に征服されますが、その後もインカの影響を受けつつ民族の独自性を保っていました。彼らが残した建造物の特徴は、基礎が円形をしていて、壁にジグザグやダイヤ型などの飾り石組みを付けたものでした。

大規模な建造物で有名なものは、北のマチュピチュとも評されるクエラップ遺跡です。クエラップ遺跡に関しては、別の機会に詳しく書くことにしましょう。

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こうした建造物や墓の一部は残されていたものの、実際に彼らがどのような生活をしていたのかは歴史の陰にうずもれてしまっていて、分かっていない部分が多くありました。

そんな中、1997年、世界に衝撃的なニュースが走りました。チャチャポヤ文化の未盗掘の墓が見つかり、中に多数のミイラが埋葬されていた、というものです。

この墓は、コンドル湖という湖のほとりの断崖絶壁で見つかったので「コンドル湖遺跡」と呼ばれるようになりました。コンドル湖遺跡からは、チャチャポヤ文化のミイラや副葬品、及び、インカ帝国の影響を受けたチャチャポヤ・インカと呼ばれる時代の遺物が多数見つかりました。

この発見が一大センセーショナルな事件としてNational Geographicなどで報道された背景には、もちろん遺物の希少性もありますが、この地方が湿度の高い、アンデス雲霧林という地方であったことにも由来します。

「湿度の高いアンデス雲霧林で(有機物である)ミイラ発見!」

ミイラやそれを包んでいる布、そして副葬品の木製品やヒョウタンの器などは全て有機物で、このような湿度が高く、虫の多い地方ではとっくに朽ち果てていておかしくはありません。それが残っていたのは、どうやら遺跡を取り巻くミクロ・クリマという小さな範囲の気候にあったようです。チャチャポヤの人々は、遺跡のある断崖絶壁の小さな窪みが通気が良く、程よく乾燥していることを知っていたようです。実際、コンドル湖遺跡は年間を通して有機物の保存に最適な湿度と温度に保たれています。

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遺跡発見のニュースを受けて、ペルーミイラ研究の第一人者のソニア・ギジェン博士が調査に乗り出しました。当初のプロジェクトは遺跡で見つかった遺物の棚卸と記録だけで、その保存までは含まれていませんでしたが、遺跡発見から多くの訪問者があり、盗掘と汚染の危険があったため、急きょ全ての遺物を近隣の村のレイメバンバまで運んで保全することになりました。

因みに、この時ギジェン博士に「全ての遺物を移動させよう」と進言したのは現地調査チームのリーダーであったモニカ・パナイフォ女史でした。当時も今もレイメバンバ博物館は女性がリーダーシップを発揮していて、プロジェクトトップのギジェン博士やこのパナイフォ女史の他、ロジスティックリーダーのアドリアナ・ボン・ハーゲン博士、後に博物館館長となるエンペラトリス・アルバラード女史、遺物保全チームのリーダーのマルセリータ・イダルゴ女史等々、プロジェクトの中心は女性たちでした。

話が逸れましたが、こうして膨大な量の遺物をレイメバンバに運ぶことになったのですが、課題は山積みでした。現地には当然水道もガスも建物すらありません。お風呂もありませんから、コンドル湖での水浴びです。現地調査チームはテントに寝泊まりし、飲料水、食料、ガスなど全てレイメバンバから運び込みました。しかし、一口に一番近い村がレイメバンバだと言っても、実は遺跡から村までは馬で12時間の道のりでした。少しは道が整備された今でこそ10時間の道のりですが、当時はまさに道なき道を往く、の体でした。

しかも雨が降る。この地域はアンデス雲霧林、乾季と雨季の差はあっても基本的に一年中雨が降ります。コンドル湖遺跡の遺物のほとんどは、ミイラ、ヒョウタンを使った椀や筒、布など湿気に極端に弱く、移動中雨に濡れないよう細心の注意が必要でした。研究者と村人達が協力し合い、一体ずつミイラを馬に乗せて、石と泥で足場の悪い道を歩いて12時間、傷つかないように濡れないように細心の注意を払いながら運搬し、全て運び終えて現地調査チームが撤収したのは97年10月、3ヶ月にわたるプロジェクトでした。この間、一体の損壊なく、チームに事故も大きな怪我もなく調査を終えることができたのは、ひとえに何かの加護があったからだ、と、ギジェン博士は今も感謝の気持ちを忘れません。

レイメバンバにやってきたコンドル湖遺跡の遺物は、一旦セントロ・マルキが借り上げた民家に保管されました。これらを適切に管理するためには、やはり施設を整える必要がある、ということで、ギジェン博士率いるセントロ・マルキが中心となって、博物館建設のために寄付金集めに奔走することになりました。

レイメバンバに、つまり現地に博物館を建設するという考えは地域振興政策に基づいていますが、ここで文句を言い始めたのはチャチャポヤス市の政府関係者でした。彼らとしては、この世紀の発見をぜひとも県庁所在地であるチャチャポヤス市に持ってきたい。様々な嫌がらせがあったそうです。一度などは、深夜2時に、チャチャポヤスの警察、検察、そして大学関係者がレイメバンバに入り、こっそり遺物を持ち出そうとしたこともあったそうです。この時、それに気づいた女性が教会の鐘を打ち鳴らし、村中の人々が遺物を守るために立ち上がって、彼らを追い返したそうです。

様々なトラブルがありつつも、その後、ウィーン大学のホルスト教授が中心となったオーストリアの有志の皆さんやイギリスの生物人類学財団、National Geographic、ボン・ハーゲン博士のご家族などから続々と寄付が集まり、博物館建設の運びとなりました。ちなみに219体のミイラが眠る空調完備の部屋は、日本においてこれらのミイラが展示された際に支払われたレンタル料(?)で完成することができました。

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また余談ですが、後にJICAの支援を受け、他の考古学遺物を保存するための空調完備の倉庫が作られました。実はこの倉庫ができるまでは、こちらの方が涼しくて室温変化がないということで、多くの遺物が私のホテルの2階に収蔵されていたのです。どのお部屋だったかはホテルにお越しの際にお伝えしますね。

コンドル湖遺跡からの遺物の移動、村での保管に団結力を示した人々はここでも力を見せます。博物館建設にはレイメバンバの村民だけでなく、近郊の村々の多くが参加し、子供や女性たちも石を運んだり、働いている人に料理をふるまったりして協力しました。

また、専門家の方々もこの博物館建設に情熱を見せました。設計を担当したホルヘ・ブルガ、ロクサーナ・コレア建築士の両名は、レイメバンバの伝統的な建築様式と周辺の景観に配慮した博物館づくりを目指し、その成果は今日の見事な景観に現れています。

こうしてレイメバンバ博物館は2000年6月、コンドル湖遺跡発見から4年を経て完成しました。博物館の正式名称は、Museo Comunal Leymebamba(レイメバンバ共同体博物館)といい、開館から20年経った今でも、代表はレイメバンバ博物館協会という村民から成る組織で、博物館員は全員レイメバンバの村人で構成されています。ペルー国政府からの援助は受けておらず、全くの独立した博物館として運営されています。

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レイメバンバ博物館


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