記憶の行方#wonder

wonderといったら、Stevie wonderを思い浮かべる。

行方のわからないことを楽しめる時と楽しめない時がある。

曖昧さや不確定な気持ち、モヤっとしたこと。

熱が出過ぎて、熱量を持て余す時、それは、悪意ではなく、善でもないのですが、時には、相手にとって、悪と捉えられてしまうことがある。そんな時は楽しめない時。

どんなにそれは、誤解であっても、一つのレッテルが張り巡らされると、大きな壁が出来る。

そんな壁、要らんがな。

一人で生きることと、自立することは、別だろうと思う。

孤独を持て余すことは、思春期にはあることで、持て余した時間が爆発する時が来る。

これらは、まず、自分に向けた文章ですが、親は、こどもの事を信じて止まない生き物で、距離が近いのは、否めなく、自立の時は、大丈夫さ、と、見守ることぐらいで、出来ることは、さほどない。

待つ時間もこどもの成長には必要なんだろうと忍び足する。

戻ってこられる場所があるよ。と、ベースとなると場所で、コーヒーを淹れる。それは、「場所」というより、わからなさも含めて、トライアンドエラーを繰り返して「関係」が作っていけるかどうかなんだろうと思う。

段ボール箱いっぱいの私がかつて書いたノートを実家の物置で発見し、なぜ、捨てなかったのか、今となっては、ありがたいと思う。

捨ててしまったこと、捨てたと思っていたけれど、残ってしまっていたもの。

恥ずかし過ぎる日記も、人に読まれるようになることもある。

図書館でも、読めるらしいが、未来につながる何かになったらいいなぁと思う。

他者の子育て日記に何を思う?

ごくごく、プライベートなことを社会と捉えるって何でしょね。

3.11以降、「再生」について、思い巡らすことが増えた。

alivenessとwonder

わくわくすることと想い巡らすこと。

ある大きな安心感のもとですと、たとえどんなに誤解と冷酷ななまざしを受けて、傷を負ったとしても、思い巡らし、遊べるサークルがあれば、「再生」が始まるのだと思う。

誰も見ていない場所で静かに傷口は塞がり、傷口は、残るかもしれませんが、やがて、生まれ変わるもの。

音楽は、わくわくさせる、誰かの心をノックする。

窓を開けて、空を眺めて、光を浴びて、誰かの声を聞いてみようと外へ出て行く。

そんな小さな出来事が、案外「再生」なんではないかと思います。

私がノックされたのは、角野隼斗さんのピアノですが、ピアノもそうですが、発する音に含まれる言語の響きや思考されたこと、聴いている音楽を押し付けない、でも、クラシック音楽って、凄いよね、と、思わせる演奏で、何か別のことが生まれようとしている、「再生(ルネサンス)」を聴いているようだな、と、思います。

もしも、坂本龍一さんと対談したら、どんな話が飛び出すのか、わくわくする。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?