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ものごとを見る視点や枠組みを知ること

大学生の就職活動時期に勝手に挫折感を味わった私は、ビジネスの世界に心残りを持ちながらも、当時両親が立て続けに病気をしたことも重なって、地元に帰り、もう一つの選択肢だった中高生に思想や哲学を教える「倫理」の教師の道を最初に選んだ。


どん底だと思っていた大学生の頃の前回の記事はこちら↓↓


私がなぜマニアックに思われがちな思想や哲学という教師の道をその時決めたのか、最初の動機は私が高校生の時に受けた倫理の授業だった。「同じ赤いリンゴを見ても、自分が見ている赤いリンゴが隣にいる人も同じ色に見えているとは限らない」という例え話を聴いて、「確かにー!!」とめちゃくちゃ衝撃だったことを覚えている。
 

その後の思想の流れの中で、それはさらに発展して、「人がものを捉える時、視覚的に見えているものの中のどこをどういうかたちで切り取って、それに何という名前をつけるかで、目の前に何が「ある」かは変わってくる」という認識論の考え方へと発展していく。
 

こういう物の見方の枠組みを知っていることは私は社会人として、ビジネスをやっていくならなおさら必要なことだと思う。

それを今の社会の状況に当てはめて見たり、自分に当てはめて見たり、自分の周りの人に当てはめて見ることができるようになって、自分や状況を客観視することができるようになり、その先を予測したり次の行動を考えることができるようになる。

同じ出来事が起こっても、それをどう捉えてどんな意味の名前をつけるかで、その人の目の前にどんな世界が広がっていくかがいかに変わるか容易に想像できる。

同じ場所にいて、同じものを見て意思疎通できていると思えるような会話をしている相手でさえも、その人は自分とは全く別の世界にいるということを前提にしていると、認識を擦り合わせることの重要性もわかるし、その姿勢はものごとを交渉するときにも必要になる。
 

今自分が見て考えていることが他に全然違う捉え方ができる中での一つに過ぎないということを知っていれば、いつでも思い込みを外せる状態で時代の流れにも対応していくことができる、変化への柔軟性も備わる。

ネガティブな状況や良くないことが起こっても、「ポジティブに考えよう」とか「自分を客観的に見よう」とかを感覚的に努力するのではなく、まずは学問的にこういうものの考え方や枠組み自体をただ知っているか知らないかの違いによって救われることも大きいと私は思う。

ものごとに対して理性的に分析する頭と自分の感情とを切り離して冷静に捉えることができるようになれる。
(これは感情や気持ちを押し殺すことではない。むしろ、自分が今何を感じているかをちゃんと感じてあげる余裕ができることにもつながる。)

世の中に出た後に自分の行く道を自分で整えていくにあたっての知恵となる、大事なものの考え方を授業を通じて自分の口から高校生に何度も伝えている中で、いつの間にか私に宿っていた数々の歴史上の思想家の視点やその思考の歩み。

社会を捉え、自分を捉えることはこれからの時代ますます重要なことで、そんなときこういう視点や枠組み、ものを考える切り口を知っていることは有用だ。

今の時代や社会がどのように変化しているのか、それはどういうことなのか、自分が何を望んでいて、どうあれば幸せなのかを自分で知っていくことはよりゆるぎない自分の基盤になるから。

ただ、、

それがわかったところで、ではそれをどうその人の人生で実現していけばいいのか、ここがまだこの頃の私は腑に落ちていなくて、高校生の彼らにその大事なところに踏み込んだところまで伝えられない、その大事なところに自分なりの答えを見いだせていないことにこの頃の私はずっと葛藤しながら教師をしていた。


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